第15話(最終話) 由美子の怒り  芦野信司(絵も)     

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登場人物                          
 大西由美子 
 ギルバート香苗
 杉本絵里子  
 杉本 修
 沢野夜空 
 沢野星也 

 その絵は、真っ暗な夜空と星々、小さな満月が高く輝き、遠くの岩山と広大な荒れ地を照らしている。8号の小さな油絵は、由美子の曾祖父が出張で行くことの多かったカタールの風景を描いたものだ。絵はこの部屋が由美子のものになるずっと前からこの部屋を飾っていた。
 曾祖父が自宅を取り壊してこのマンションに建て替えたのは、早逝した息子の妻と孫娘の生活が自分が死んだ後も成り立つようにするためだった。築後40年になるが、3階建て10家族用の賃貸マンションは十分にその役割を果たし、曾孫となる由美子の代までもその恩恵を与えている。
 大西家は代々の陸軍の家系だったが、曾祖父は終戦後商社勤めを経て石油会社に移籍した。もっとも由美子が生まれる20年以前に曾祖父は亡くなっているので、曾祖父の面影はアルバムによるしかない。33歳で亡くなった祖父の写真はさらに古く、父は小学3年生の時に母と別れて以来一度も会っていない。由美子は男っ気の薄い家庭で育った。曾祖父は、祖母、母、由美子の女ばかり3人の家族にとって今でも一番頼れる男だった。
 油絵は、曾祖父が石油会社に移籍してから始めた趣味であり、マンション一階の自宅の玄関、廊下、各部屋に飾られている。絵の題材はすべてカタールの風景である。オレンジ色の砂漠と真っ青な空。白いモスクや日干煉瓦の建物。石油掘削のための巨大な馬の首のような機械。油井の有毒ガスを燃やすための煙突群。そしてペルシャ湾に浮かぶタンカー。どの風景も索漠としたものだが、曾祖父の筆使いにはどれも愛おしさが込められている。
 由美子は、曾祖父の夜空の絵を見ているうちに伊香保の夜を思い出していた。夜遅い石段街は人通りも少なかったし、子供に会わせる顔がないと言っていた居酒屋の女将の身の上話を聞いたせいで人恋しい気分になっていた。年下の男に甘えて泣いたりなんかして、芝居でもしているようにロマンチックだった。そして、修の胸が緊張してドキドキ鳴っているのがおかしくなって、その顔を見上げてから階段街を振り返った時、空には星があんなにあったんだと驚かされた。あの時はあんなに楽しかったのに、その後の1ヶ月間は手のひらを返したように不愉快なことばかりが続いた。

 伊香保以来ぱたりと修がクラブに来なくなった。キャンパスを歩いているのを一度見かけたことがある。由美子は声をかけようと思ったのだが、修は気づいているはずなのにさっと向きを変えて人の群にまぎれてしまった。何となくだが、修からだけでなくクラブの他のメンバーからも避けられているような気配があった。夏休み前の前期定期試験の時期なので、みんなが忙しいのは分かるし、クラブが二の次になる。それは由美子だっておなじなのだが。
 10日ほど経ったとき、一度クラブの部長から妙な電話がかかってきた。いつもはメールなのに、いきなりの電話だった。
「学生課から呼び出しがあって杉本が脅迫されたと言っているらしいが何かしらないか」
「知らない。というか、このごろ顔を見てないんでどうしているかと思っていたところ」
「伊香保で何かなかったかい?」
「うーん、6人の予定だったのが、田村先輩と先輩の彼女の麻里さん、杉本君と私の4人になったくらいで、伊香保に泊まった後は、おもちゃと     人形自動車博物館を見学して帰ってきただけで特には何もなかったと思うんだけど」
 あるとすれば、同行した田村先輩と麻里さんが同室になりたいと言い出したことだ。結果として由美子と修が同室になったくらいだが、余計にややこしくなることは目に見えていたので由美子は口をつぐんだ。
「じゃあ田村先輩にも聞いてみようかな」と部長が言う。
「代わりに聞いてみましょうか?」
「いやいいよ。俺が聞く」
「じゃあ、杉本君に聞いてみましょうか?」
 ため息が聞こえた。しばし時間をおいてから部長の声がした。
「大西が電話するのは止めた方がいいな。俺が聞くから」
 部長の電話が切れた。
 由美子は部長の言い方にひっかかりを感じた。部長は学生課から何かを言われて調べているんじゃないだろうか。そうでなきゃいつもは何もしない部長が自分で動き回る訳はないと考えた。そして、それ以来部長からの連絡はないのだ。
 7月27日が由美子の前期試験の最終日だった。試験から解放され夏休みに突入するので、仲のいい英文科の友人と渋谷にお茶に行った。気の置けない友人だったので何でも由美子に話す。その友人から注意をされたのだ。
「由美子さあ、知り合いの子で『フィギュア愛』の彼氏がいる子がいてね。由美子のことで変な噂が立っているらしいよ。私は由美子のことをよく知っているから信じられないんだけど、由美子が2年生の男の子を誘惑して肉体関係をもったので、怒った由美子の彼氏がその男の子を脅迫したとかいう話。由美子、知ってる?」
「まさか!第一、そんな彼氏いないし」
「そうだよね。由美子、お堅いし、ありえない話だよね。でも、2年生の男の子の方はありえるのかな。どう?」
 友人はそう言ってけらけら笑う。
「馬鹿をいわないでよ。そう言えば、なんだかこのごろクラブの雰囲気が悪かったのはそのせいなのかな」
「その男の子、休学するとか海外留学するとか言ってるらしい」
「えっ! どうして」
「由美子の彼氏がよっぽど怖いんじゃない?」
「だから、いないと言ってるじゃない」
「そうよね。なぜかな。由美子、何かひどいことをしなかった? その男の子のプライドをズタズタにするようなこと」
「もういい加減にしてよ。私をからかって何がおもしろいの。ちょと酷くない?」
 由美子は自分の顔がぱっと赤くなるのを感じた。胸が高鳴った。
 友人は、由美子が本気で怒ったのに驚いたようだった。
「私はそんな噂、信じていないのよ」友人は由美子の目を真正面から見つめて言った。「でも、知り合いの子の話では『フィギュア愛』の中でそんな噂があるらしいの」

 夏休みに入って、由美子は自分の部屋にこもっていた。自分の知らないところで何かが動き回っている。クラブだけでなく、学生課を含めたもっと大きな学校という範囲まで広がっている。留学生に日本的なお土産を探していて、修が持っていた巾着に目を付けたのは由美子だった。巾着を作っているのが修のお祖母さんの久枝と知って菊名の自宅までおじゃまして交渉したのも由美子だった。それで知り合いになったお祖父さんの浩一。その優しく素敵な二人の耳にも、自分の悪い噂が入っているのだろうと思うと由美子は残念でならなかった。噂は払拭しなければならなかった。
 部長には止められた修への電話を何度も試みたが、電話は電源から切られていた。メールも打ったが、それとて修は見ていないだろう。
 修がなぜあんな嘘をついているのだろう。その嘘の果てがなぜ休学や外国留学ということまでなるのか。そして、その原因がなぜ自分なのか。しかし、由美子が耳にしていることは噂に過ぎない。修に直接聞いてみないことには疑問は解けない。連絡を取ろうとしない修に由美子は怒りを感じた。
 修の住所はクラブの名簿があるので分かるが、電話連絡もメールもだめだとなれば、おそらく手紙を送っても無視されるだろう。それならば、直接行ってドアのチャイムを鳴らすという手はある。それでも門前払いをされる可能性があるし、何よりもストーカーのようなあさましい行為は由美子のプライドが許さなかった。
 菊名を訪ねて、修に会わせてもらうことをお願いすることはできるかもしれないと由美子は考えた。しかし、二人は修の味方をしなければならない。自分の願いがそんな二人を困らせることになるかもしれないと思うと躊躇する。
 もう一つは、巾着のレンタルボックスの店のつてをたどることだ。いつだったか東神奈川の駅からすぐそばの店だということを修が言っていた。巾着だけ扱っているレンタルボックスなど他にないだろうし、簡単に見つかるだろうと由美子は踏んだ。そして、連絡先を聞くことはできるのではないかと。ネットで調べると簡単にそれらしき店は見つかった。電話で店長に聞いてみた。すると確かに巾着専門のボックスはあるが、オーナーの電話番号は個人情報になるので教えられないという。連絡手段はないかと重ねて聞いてみたら、注文ポストがあって、そこにメモを入れたらいいと言われた。だが、それだと手紙を送るのと何らかわらない。
 由美子が望んでいるのは修と直に会うことなのだが、どの方法をとっても確実とはいえず、カタールの夜空の絵と向き合ったままの日々をまた何日か費やしてしまった。このままでは由美子自身が外の世界に出られない人間になってしまいそうだった。

 由美子はとにかく行動することを決心した。家を出て向かった先は東神奈川のレンタルボックスの店だった。スーパーの建物の一角にあるその店は、小さなプラスチックのボックスが沢山積まれていた。その一つ一つが個性豊かなショップになっている。手作りの手芸製品が可愛く小さく並べてある。それらは、ボックスをのぞく人に「私を買って。私を買って」と声を上げているようにさえ見える。購買層はスーパーの買い物ついでの主婦のようだ。由美子はボックスを見てまわっていた。しかし、何度見ても巾着のボックスが無いのだ。由美子がきょろきょろ見回していると、中年とおぼしき女性が店の中でぼんやり立っている姿がいやでも気になった。やせた体型をしていて化粧っ気がなくてあどけない表情をしている。それだけの特徴ならば、目立つことはないのだが、頭にヘッドホンをのせている。あの女性はここで何をしているのだろうと訝りながら、由美子は会計カウンターに立っている四十代とおぼしき男性に聞いてみた。その男が店長だった。
「もしかしたら、お客さん、数日前に電話をいただいた方ですか?」
 店長は、由美子のことを覚えていたらしい。
「ええ」と由美子。
「品物も見ずにオーナーさんに電話したいなんて珍しいなあと思って覚えていたんですよ」
「それで伺ったんですが、どのボックスか分からなくてお尋ねしようと思っていたところでした」
「そうなんですよ。せっかく来ていただいたのに申し訳ないんですが、事情があってオーナーさんから供給が止まっているのです」
 由美子は胸が塞がれるような気がした。修のことで巾着ビジネスもストップしたのだろうか。
「それじゃあ、仕事は止めたんですか?」
 店長は、首をひねった。カウンターから出てきて「どうぞこちらへ」と先に立って案内した。そして、空っぽのボックスを手で示した。すると、先ほどぼんやり立っていた中年の女性がすっと近づいてきて、ヘッドホンを片耳だけ外したのだ。店長は、女性に対して目だけでお辞儀をした。店長と女性はなじみのようだった。
「これが契約いただいているボックスでご覧のとおり空なのですが、実は注文ボックスにはご注文が何枚も来ているのです。こちらのお客様もそのおひとりなんです」
 店長はそう言って、由美子に向けていた視線を女性の方へ向けた。そして、今度は女性に向かって子供を諭すような口調でしゃべりはじめた。
「巾着を実際に作っていたお婆ちゃまが入院されたようです。当面作れないと言っていました。ですからご注文いただいても巾着はありません。分かっていただけますか。巾着はありません」
 女性は大きな目をさらに大きくして店長の顔をのぞき込んだ。
「久枝さん、病気ですか?」と女性。
「この間、会ったばかりなのに」と由美子が言った。
 今度は店長が驚いた。
「お二人は作者とお知り合いですか?」
 由美子と女性は互いに横目でちらちら相手をうかがって、店長に対してうなずいた。
「そうですか。オーナーはご長男のお嫁さんのようでね」
 由美子はそこで店長に食い下がった。
「ですから、オーナーの方の電話番号が知りたいのです」
 店長は、額にしわを寄せて困惑していたが、出てきた答えは同じだった。
「個人情報ですので無理です。すみません」
 店長は頭を下げてカウンターに戻って行った。
 由美子は女性の方に向き直って聞いてみた。
「突然ですみません。オーナーの家に電話をしたいのですが、電話番号を知らなくて困っているんです。知っていたら教えていただきたいんですが」
 女性はとても困った表情でおどおどしていた。視線をあちこちに向けて由美子に何かを伝えようとしているらしいのだがそれをどう伝たらいいのかが分からないらしい。そして、横目で由美子をちらっと見ると、外していた片方のヘッドホンを耳に戻して背中を見せて去って行った。
 由美子は菊名駅に降り立った。
 久枝が入院したとなれば、浩一だけの暮らしになっている筈。浩一の体だって思うようにきかないのだから不自由な生活になっているだろうと思った。はじめて浩一と会ったとき駅前の店で餃子を買っていた記憶があったが、もしも不在の場合を考えると、八月の真昼のお土産にすることはできない。由美子は、駅に併設している東急ストアで探した。気持ちにぴったりするものがないので仕方なく贈答用の梨のゼリーの詰め合わせを選び包んでもらった。それに、自分のお昼用にとサンドイッチを買った。
 駅の階段に行列ができていた。階段を下りた先のバス停まで続いている。駅前の道が狭いせいでもあるが、日向の日差しを避けるための行列であった。通りに出た途端、風景が白くなるほどの太陽の光だった。由美子は日傘を開き、道を横切った。そして飲食店が並んだ路地に入った。ひっそりしている。どの店も眠ったようだ。ドアを半開きにしているスナックがある。掃除の最中なのだろう。小さなカーペットが店の前の看板にひっかけて干してある。その先の焼鳥屋は引き戸が閉まっていたが、内からまな板で包丁を使うリズミカルな音が聞こえていた。修が初めて一人のみをしたのが駅前の焼鳥屋だったと言っていたのを思い出した。もしかしたらこの店かなと思いながらガラスの引き戸のところでちょっと佇むと、包丁の音のリズムが変わったので、由美子はあわてて店から離れた。
 路地を抜けると往来の激しい街道になる。由美子は、強烈な日差しを日傘で遮りながら蓮勝寺までの道をゆっくり歩いて行った。蓮勝寺境内は緑が多い。静かである。正面の階段を上ったところにベンチがあった。でもそこは日差しを遮るものがない。由美子は、寺院の庇が作る大きな影の中にちょうどいい大きさの石組みを見つけた。畳んだ日傘を脇において、さっき買ったサンドイッチをほおばった。ハンカチで首に浮かんだ汗を押さえる。暑いながらも緑陰を吹く微風は心地よい。それが由美子に再び立ち上がって前に進む勇気を与えてくれた。
 蓮勝寺を出てしばらく行くと、小林酒店があった。いつも立ち寄るところだと浩一が教えてくれた店だ。店前に大型トラックが止まっている。街道を通る車のじゃまになっている。トラックの尾灯がハザードになっているので一時停車らしい。由美子がトラックの後部でどのようにして前に行こうかと行き悩んでいると、店から慌てて出てきた元気のいい女性が「すみませんねえ。すぐ出ますので」と言ってトラックの助手席に乗り込んでいった。
 トラックはひとかたまりの排気ガスを残して発進して行った。由美子は酒店の建物近くに寄って排ガスを避けたが、手を口に当てて顔をしかめた。店先でトラックを見送っていた青年が、由美子の方を向いて頭をかいた。
「申し訳ないです。さっきのトラック、うちの親父とお袋なんです」
由美子は、この青年はどうして見ず知らずの通行人である自分にこうも気さくに話しかけられるのだろうかと訝った。
「長距離トラックでの旧婚旅行だそうですよ。暢気なもんですよね」
 青年は笑いながらそう言うと「それじゃどうも」と会釈して店の中に入って行ってしまった。
 何気ない会話だったが、青年の商売人らしい愛想の良さ、その飾らない人柄に、由美子は感じ入るものがあった。青年が入っていった店の中を覗いてみると、奥の方で若い女性と親しげに立ち話をしていた。奥さんだろうと直感した。これまでの人生で知らなかった和やかさがここにはあると思った。由美子はこんな何気ないことにひどく感動している自分に驚いた。引きこもっていたので心が感じやすくなっているのだろうと思った。
 しばらく行ってから左に曲がって右に曲がると、いよいよ浩一の家が見えてきた。自分に突きつけられる現実が一歩ごとに大きくなっていくようだった。門を入って呼び鈴を押した。浩一の動きなら玄関まで来るのにも時間がかかると思い、由美子は目をつむり、自分の深呼吸の音を聞いていた。ところが、玄関のドアは意外な早さで開いた。そして、そこに立っていたのは見知らぬ女性だった。
 由美子は一瞬、修のお母さんかなと思った。年格好がそうだったからだ。先方も若い女の訪問が意外だったらしく、疑問符だらけの目で見つめていた。
「はじめまして、あのう、私は大西由美子と申します。青嶺大学の三年生で、杉本えーと、さんとは同じクラブの者です」
 由美子はがちがちに緊張した挨拶をした。
 女性は、由美子の顔をじっと見つめながら思い出したように言った。
「じゃー、修と一緒の、あのむちむちしたフィギュアが好きな人たちのクラブの人ね。私、香苗です。修の叔母です」
 由美子は驚いた。叔母はイギリスに住んでいると修から聞いていたからだ。
「イギリスから帰って来られたんですか?」
「両親が二人とも入院だからね」
「えっ、二人とも、ですか」
「まあ、こんなところで話してもしょうがないので、どーぞ中にお入りになってください」
 香苗の日本語はきれいなのだが、発音に英語なまりが残っていた。
 茶の間には簾がおろされていた。
「ここはサンルームみたいなところだしクーラーの効きも悪いけど、私の好きな部屋なの。この古い竹のカーテンも風情があるでしょ」
 由美子が手みやげを差し出すと、香苗は三つ指をついてお辞儀した。
「ありがとうございます。前にもいらしたことがあるんですね」
「はい、何度か。お母様にお願いして巾着を作っていただきました。実は留学生との交流会のプレゼントとして作っていただいたのです。とても喜んでもらえました。可愛いいポシェットだと。純日本風ですしね。」
 香苗が隣のキッチンから冷えたお茶を運んできた。
「ところで、入院なさったのはお二人なんですね。先月お会いしたばかりでしたが」と由美子が尋ねた。
「父は夕方に散歩するのが日課だったんですが、その日に限って朝の涼しい内に出かけたんだそうです。その上、いつもよりきつい坂に挑んだようで、坂の途中で倒れたのを見ていた人がいて、すぐに救急車を呼んでくれたんです。それで、助かったんですよ。数年前に同じ坂で倒れた人がいたそうで、その方は入院して1週間で亡くなったとか。父の場合は軽症だったのでラッキーでした。父は退院を希望しているんですが、まだもう少し入っていてもらうつもりです。母のこともありますのでね」
「お母様は、巾着作りで無理をして体調を崩されていたので、私、申し訳なくて」
「あなたが責任を感じることは何もないのよ。母は、それで生き生きしていたようだし、あなたのような若い人とも知り合いになれて喜んでいたのだから。それに母の大腸ガンは健康診断でたまたまひっかかって分かった初期のものだったので、術後の経過も良好よ。心配しないで」
「それは良かったです。じゃあ、お二人が退院したら、またイギリスに戻られるのですね」
「それはまた別の事情があるので、決めていないわ」
「実は私英文科なんです。来年が4年なのでちょっと進路に悩んでいまして相談できる人を捜していたんです」
「私に進路相談するのは間違っているかも。いろいろ失敗してきたから。でもね失敗が後で考えると失敗じゃなかった、悪いことが悪いことじゃなかったなんてことはざらにあることだから、くよくよしないことね。私にとって、今回の両親の入院はいいことじゃなかった。当然よね。海外にいる私はすぐに動けないから。修のお母さんの絵里子さんから『私が世話をするから心配しないで』と言われたときは、内心助かったと思ったのよ。でも、そう思ってしまう自分が嫌だったの。だから、全部振り捨てて帰ってきた。帰ってきたら、長い間意固地になって反発していた母が泣いて喜んでくれるのよ。大学を卒業して以来ほとんど日本に帰って来なかったんだから本当に親不孝よね。私はこの歳になってやっと母がかけがえのない人だっていうことが分かったの。こんな私に進路相談なんて、とんでもないわ」
 香苗は涙の滲んだ醒めた目で由美子を見つめた。そして無表情のまま立ち上がって奥の部屋へ行ってしまった。
 由美子は自分が失言したのかとも思った。1分経っても2分経っても香苗は帰ってこない。多分香苗は泣いているのだ。それを人に見せたくないのだろう。由美子はそう思った。
 取り残された由美子は、香苗が座っていた場所の横に一冊の本が置いてあるのに気がついた。香苗の読みさしかと思った。立派な装丁の本で『私の労働組合史』とある。手にとって、表紙をめくってみて浩一が書いたものと分かった。好奇心から頁をめくってみると、聞いたことのある石油会社の名前があった。そして、そこに曾祖父の名前を見つけた時は思わず唾を飲み込んだ。曾祖父は浩一が勤めていた会社の常務取締役だったようだ。夢中で頁をめくっていると香苗が戻ってきたので、由美子は慌てて本を戻した。
「すみません。勝手に本を見たりして」
 由美子はぺこりと頭を下げた。そして、言葉を継いだ。
「もし、できることでしたらこの本を貸していただけないでしょうか? 拝見していたら、私の曾祖父の名前があったのです。祖母や母にぜひ見せてやりたいのです。どんなに喜ぶか分かりません。お願いします」
 由美子は頭を下げたままだ。
 香苗は横座りになって、本を取り上げた。そして、小首を傾げて由美子を見上げた。
「ほんとう?」
「ええ」
「この本を読みたいなんて人が現れるとは信じられない。この本は母からも私からも大顰蹙をかっていたものよ。この本だったら差し上げるわよ。まだ父の押入に在庫がいっぱいあるから。ちょっと待っていてね」
 香苗が奥から戻ってきたときには薄紙にくるまれたままの本を携えていた。
「うちの父も喜ぶわね。こんなきれいなお嬢さんに読んでもらえるなんて。しかもご縁があるなんて」
「私も嬉しいです。私はお父様のファンですから」
 二人はひとしきり笑った。
「でも」と、香苗が思い出したように言った。「何だかすっかり打ち解けちゃったけど、あなた、肝心のことを言っていないわよね。父か母にただお土産を持って会いに来た訳じゃないでしょ?」
「はい。実は杉本君に連絡が取れなくて困っているんです。私には、杉本君に直に会って聞かなければならないことがあるのです。それで会えるような機会を作ってもらいたくて来ました」
 由美子は、伊香保の研修旅行以降に自分に降りかかった噂を香苗に説明した。修が私の彼氏という人に「俺の女に手を出すな」と脅かされたらしいこと。そのため修が休学するとか海外留学するとかの話になり事件が大きくなっていること。学生課ではクラブの部長を通じて調べているらしいこと。その調査過程で噂は尾鰭をつけて広がっていて、このままではクラブをやめなければならないだろうし、学校での友人関係にも罅が入りそうなこと。何より腹立たしいのは、私にそんな彼氏などいなく、そんな根も葉もない噂が事実として動いていることだと言った。
「分かったわ。私はあなたの言うことを信じる」香苗はきっぱりと言い放った。「でも、修が嘘をつくとも思えないし、あなたの言うとおり、修に詳しく聞いてみるしか無いわね。ちなみに留学の話は無くなったから安心して。世話するはずだった私がこっちに来ちゃったもの」
 香苗がスマホで番号を押し始めた。そして耳に当てると、由美子に言った。
「いい? これから片倉町に行くからね」
「これからですか?」
「私が連れて行ってあげる」
 電話が通じたようだった。
「香苗です。お義姉さん? 今日、修君は家にいるの? そう、ちょうどいい。今こちらに大西さんというお嬢さんがお見えなの。修君に話したいことがるそうなのでこれから連れて行くわね。じゃあ」
 香苗は一方的にしゃべって一方的に電話を切った。
「いいんですか? 急に行って」
 由美子は不安になった。
「いいのよ。今はあなたが前進すべきときなのよ。それから、せっかくいただいたお土産なんだけど、うちでは食べる人がいないので、片倉町に持って行こうね。義姉の受けが違うから」

日が傾いて、日差しが少しだけ優しくなっていた。片倉町の家のドアを開いてくれたのは絵里子だった。
「まあ、あなたが大西さんなのね。よく来てくださいましたわね。どうぞ、お入りになって」
 上品で素敵な笑顔だったが、出自や趣味や性格を一目で観察されたような鋭い一閃を由美子は感じた。
 リビングは、アイボリーとブラウン系統系統で統一された色調で、落ち着いた雰囲気を醸し出しているが、その神経の細やかさに圧迫感があった。
 差し出した由美子の手土産を絵里子は大仰に喜んだ。
「もう、大西さんったら。手ぶらでいらして下ったら良かったのに。楽しみにしていたんですよ」
「突然おじゃまして、本当にすみません」
 由美子は、立ったまま両掌を前で会わせ、腰のあたりから直角に上体を倒すお辞儀をした。
「香苗さんはいつも突然だから驚かないことにしているのよ。さあ、どうぞお座りください。今日は菊名の家にご用があったのですか?」
 この問いには香苗が答えた。
「大西さんは修君に連絡を取りたいだけだったのよ」
 香苗は、由美子がそのため菊名を訪ねてきたことを手短に説明した。「お義姉さん、修君はいるんでしょ」
「ええ居ますよ。でも、ちょっと精神が不安定なんじゃないかと心配で、いったんあなたの話を伺ってから会っていただこうと思っているんです」
「精神が不安定なんですか?」と由美子。
「まあ、そんな感じがするんです。顔色も悪く、食欲もなく、ずっと部屋にこもりっきりだったりするものですから」
「じゃあ、私と似ていますね。私も夏休みになってからは部屋にこもりっきりになっていましたから」
「そうなんですか?」
 絵里子の声に不満の響きが滲んでいた。
 由美子は、伊香保の研修旅行以降に自分の身の回りに起きたことを説明した。身に覚えのないことで修に会えなくなったり、クラブの仲間から疑われたり、果てにはクラブに関係のない友人からも疑いをかけられ、このままでは学校を続ける自信がなくなっていることを説明した。
「それじゃあなたは修が嘘をついていると疑っているんですね!」
 絵里子の声には、由美子の体にきりきりと何かが巻き付いてくるような怒りがこもっていた。
「いいえ、そうじゃないんです。私には何が起こったのかさっぱり分からないのです。私に責任があるのなら、どんなことを言われても仕方がないと思っています。その覚悟はあります。私は事実を知りたいだけです」
「それはね。あなたが知らない間に起きたからよ」絵里子は、冷たく上手な物言いをした。「これ以上は、修から直接聞いた方がいいでしょう。そうすればあなたにも納得いただけるでしょうから」
 絵里子はリビングを出ていった。階段を上がっていく足音がした。そして、ばたばたと降りてくる乱雑な足音になった。
 修が気まずそうな顔つきで入ってきた。その後に絵里子が続いた。修は由美子に向き合う椅子に腰掛けた。由美子が修の顔を睨んでいる。
「学生課が私の周辺を調査しているらしいの。私の彼氏があなたを脅迫しているって。本当にそうなの? いつ、どこでそれが起きたのか、教えてほしいの」
 修は、由美子に正確に伝えようとしているらしく、記憶を辿るようにとつとつと語り始めた。
「伊香保からの帰り、関越高速に乗る前のドライブインでおみやげ物屋に寄りましたよね。僕がテーブル席に座っていてスマホゲームをやって、大西先輩がトイレから戻ってくるのを待っているとき、先輩の彼氏が近づいてきて、昨日はうまくいったかいとか、俺の女に近づくなと言われたんです。腕をつかまれ、タオルの巻かれた金属バットを見せつけられて、僕を店から連れ出そうとするんです。僕は怖くて足がふるえて声も出せませんでした。先輩が戻るのがもう少し遅かったら店の裏に連れ出されて殴られていたところでした。その人は、先輩にはそんなストーカーまがいの姿を見せたくなかったんだと思います。先輩の姿がちらっと見えたら、姿を隠しましたから」
「なぜあの時私に言わなかったの?」
 修は顎をふわせて「いやあ、とんでもない」と言った。「殺されてしまいます。それに誰にも信じてもらえないと思ったのです。余りに唐突で、誰も見ていないし。うちの母さんだってはじめは信じなかった。なぜバットなの。そんなもの誰も持ち歩かないでしょうと言って。交番に被害届を出したときも、まったく信じられないといった顔をされました。学生課でも同じ。父と一緒に行ってやっと取り合ってくれたけど、甘えん坊の子供扱いをされました。大西先輩。もしも、あの時先輩の彼氏から脅かされたと言ったら、信じてくれましたか?」
 由美子はゆっくり顔を左右に振った。
「先輩さえ信じてくれない。それはあの時の僕の現実でした」
 由美子は静かに修に聞いた。
「今でも私にそんな彼氏がいると思っているの?」
 修は弱々しく微笑みながら「今は思っていません」と答えた。
「どうして?」
「先輩がうちに来ると聞いた時からずっと考えていたんです。自分のことを。先輩になぜ相談しなかったのか。自分は馬鹿で、弱虫でした。先輩の顔を見たら、やっぱり自分が弱虫だったことが分かったからです。あの時は恐怖だけが真実でした。誰が何を言おうとそれは全部嘘に思えました。真実は金属バットだけでした。それしか頭になかったのです。すみません」
「やっぱり、会って話せて良かった。私、ずっと杉本君に腹を立てていたの。なぜ身に覚えのないことで非難されなきゃならないんだってね。その出所が全部杉本君じゃない。その上いっさい連絡できないんだから。でも、杉本君の話を聞いていて、私にも同じような経験があると思ったの。私、1年生の時秋葉原で見た男にストーカーされて電車で痴漢にあったって話したわよね。それで男性恐怖症になったと。本当はもっと怖い目にあったの。電車が次の神田に着いたのでそこで電車を降りたの。怖いから近くにあった児童公園のトイレに避難した。女子トイレよ。でもその男が追ってきて『おい、あけろよ』とすごむので、私耐えきれなくて『止めてください』と悲鳴を上げてしまった。すると、男はドアを蹴飛ばして『なんだよ、誘っていたんじゃないのかよ』と捨てぜりふを残して行ってしまった。私は30分以上もトイレから出られなかった。怖かったのは勿論だけど、男の捨てぜりふがショックだった。それからは男の顔を見ると矢印がだぶって見えるようになって、今になって思い出してみると、あのドライブインでも気味の悪い矢印が見えたのよね。ひどく鋭い顔立ちの連中がいたので嫌だなと思っていた。でも、杉本君がそばにいたので安心していたのを思い出した」
「やっぱりちゃんと話し合うべきよね。信じられないようことはやっぱり起きるもの。でも、修君は結果として良かったんじゃないの。変な男たちから大西さんを守ることができたんだし」香苗は、ソファーに背中を預け、遠くを見るような目をした。「私もちゃんと話さなければならないなあ」
 絵里子は、まだ腹立ちが納まりきれないのか修の顔を睨んでいた。
「修、あなたあんなに生きるの死ぬのみたいな顔をしてさんざん私たちを心配させたのは何だったの? このお嬢さんに彼氏がいないことが分かったら直る病気だったわけ? めんどうくさい男ね。父親似か。あー嫌なことを思い出した。修、あなたこのお嬢さんが好きなら好きとはっきり言いなさい。付き合いきれないわよ」
 絵里子が雷鳴のような声を発したとき、電話が鳴った。絵里子は不機嫌なまま電話をとったが、声は急にはなやかな声に変わった。
「……まあ、おひさしぶりですこと、いかが……北海道からお戻りですか。それはうらやましいところでお仕事だったんですね……」
香苗が肘で隣に座っている由美子の肘をつつき囁いた。「さすが義姉さん。変わり身が早い」
「……へー、夜空さんが今日レンタルボックスに行かれたのですか。それで、うちの義母が入院したのを知ったのですね。それで、具合はどうかと……」
 由美子が修のほうへ顔を突き出して話しかけた。「夜空さんだって。杉本、覚えている?伊香保の女将が持っていた写真。私、今日レンタルボックスで夜空さんに会っている。きっとあの人だ。夜空だなんてそんな珍しい名前聞いたことないもの」
 修は由美子の顔と受話器を持った絵里子の横顔を交互に見比べ、由美子に訊いた。「写真のもう一人の男の子の名前は?」
「星也」
 修はうなずいた。
「……義母は退院したらまた巾着をしたいって張り切っていますので。ええ、大丈夫です。夜空さんによろしくお伝えください。はい、ごめんください。……」絵里子が受話器を置いた。
「おかあさん!」と修が声をかけた。
 絵里子はまた不機嫌な顔に戻った。
「なによ、急に大きな声を出して。現金な子ね」
「今の電話、星也さんだよね」
「えー、なぜ、あなた星也さんのこと知っているの?」
「やっぱり。伊香保で二人を待っている人がいたんだ。また伊香保に行く用事ができたな」

第14話 絵里子に貼り付く霧氷  麻如莉樺

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登場人物
杉本浩一、久枝
宏      杉本家の長男
絵里子    宏の妻
修      宏の長男
由美子    修と同じ大学の学生

「修、まだ寝ているの。何処か具合が悪いの? 如何したの。お父さん伊香保プリン食べて出かけたけど。開けますよ」絵里子は修の部屋のドアの前で声を掛けた。そっとドアを押し開ける。部屋の中が暗い。ドアが何かに引っかかったように重い。部屋の中に光がない。ブラインドを開けなくては、と修の部屋に足を踏み入れた途端に絵里子は何かに躓いた。
「痛っ、何? あああ・・・・・・いやっだぁ。何をしているのよ。修! 修・・・ちゃん・・・ーン」
「お母さん・・・・・・。ブラインドを開けないで。お父さんは出かけたの。今日は何時に帰るかなぁ。すごい力があるんだね。ドアを蹴飛ばしたでしょ。お母さんは・・・・・・むにゃむにゃ、ンーハー、フーン、ブツブツ、カサカサ」まだ、ベッドの中にいたのだろう。ゆつくり起き上がる気配がする。だが絵里子は気が付いた。なんか変だ。声が小さいだけでなく言いながら怯えている。神経はあちこちに尖っているようで、張りつめている気配もする。自分の声に落ち着く先を探している。
「修、何をしているのよ。あー膝が痛い。何ヨ、これは! 」転がっていた野球のバットに足を乗せたために絵里子は片方の足が前に出て、もう片方の足が膝から折りたたまれたまま床に尻もちをついた。おまけに尻もちをつくと同時に何か解らない物体に顔の顎の辺りがぶつかった。頭くらくらする。顎に何かが、ぶつかったのだ。と認識が出来たのは少し時間が経ってからだ。薄明りの中で息子の修が何かを被って顔だけ絵里子の方に向けて様子を探っている。絵里子は四つん這いになり、身体を起こし片足を床につけてから、ゆっくりと起き上がった。薄明りに目がなれると椅子でドアを固定してあった事が解った。椅子が横たわっている。5本脚の先にあるローラーの何個かが回っている音もする。ブラインドを開けるとベッドの中で海老の様にうずくまり、丸まったまま枕を抱えている修が居た。
「如何したの。具合が悪いの? お父さんの声は聞こえた? 今、何時だと思っているの。
お母さん出かけたいのよ。今日の講義はないの? 出かけないの? それにどうしたの。
何のために椅子をドアの前に・・・・・・。 それにしてもなんか、イテテ、痛いのだけど。怪我をしてないかしら。お母さん怪我してないかしら。 顎が痛い! あらら・・・ 膝も痛い」 
 絵里子は顎を撫でながら軽く足を引きずりながら、明るくなった部屋を瞬時に観察した。着ていたものが乱雑に床に散らばり、絵理子がつまずいた椅子の横にバッドが二本転がっていた。あっち向けホイとバットも言っているようだ」
「うるさいなー。 いちいち干渉しないでよ。 後で出かけるよ。 何処が?何が?何で?痛いのさぁー。お母さんは元気だから怪我なんかしないでしょ」
絵里子は起き上がって胡坐をベッドの上で搔き、タオルケットで身体を包み込み顔だけ出している修のクマになった目もとを見た。怒りが背中から立ち上がるが、どこかで怒りを静める部屋の状態と我が子の様子の変化があった。ひと呼吸おいて出てきた言葉は
「どうだったの? 伊香保の研修会。由美子さんの事を今度紹介してね。お母さんも会ってみたい。菊名のお祖母さんには二回も会っていて如何して・・・・・・私には紹介もなし、なの? いたタタ。痛いのだけど。足も顔も痛い! 」息子に猫なで声でとがめる様に穏やかに言っていたのがいつの間にか、大声になっていた。修の部屋に入るのは一週間ぶりだ。「うるさい! 」の修の声が絵里子の脳みそに突き刺さっている。怒りのためなのか、息子への腑甲斐なさのためなのか、だんだん苛々してきた。椅子を直しつつ、それでも江里子は母親の威厳を保とうと息子に気を使いながら会話を選んだつもりだった。菊名の義母への思ってもいなかった言葉が口から飛び出してしまった事を後悔した。 
 大声で静まった空気が絵里子の思惑で澱んでいく。

━由美子さんって、なんて失礼な女なのでしょう。なんで挨拶一つ出来ないの。菊名には寄れても片倉には寄れないのかしら。━ 
絵里子の心に住み着いている悪魔が耳元で囁く。(年上だから息子をフィギュアみたいに思っているし、彼は人畜無害の存在なだけだよ)

「えっ、由美子さんはだめだよ。 たぶん「フィギュア愛」の同好会を止めるのではないかな。あっ、解らない。それに・・・おまけにあいつは終わっている」穏やかだが棘のある修の声で絵里子は我に返る。
「如何したの。伊香保で何かあったの。終わっているって何が? 修ちゃんずっと一緒だったんでしょ」聞きたい事が山ほどあったが、絵理子は歯を食いしばり、我慢した。言葉はた易い。でも、下品な事は聞きたくない。知りたくない。

━えっー、辞めるって巾着はどうなるの。そうかーお義母さんには、この理由で面倒くさいから全部を辞めてもらおう。肩が痛いだの、腰が痛いだのと、気を遣うのには疲れたわ━
どこかで囁く頭の中の悪魔の声が引きつっている。「アー面倒くさい。面倒くさい。嫌だ、いやだ。関わりあいたくない」義母が巾着づくりで絵里子と楽しみが共有できる事が嬉しかったのが、絵里子の発案と労力でお店と言う形になった。作るのが義務の様になっていくにつれ義母には大変になった。絵里子には想定していなかった年寄りの部分だった。義母が苦痛になっていたのは解っていた。それ以外にも義母とかかわりあう頻度が増えるのも、おたがいの距離が近づくのもあまり考えていなかった。家族と言っても義理の関係は充足を産まない。菊名の家はもっと遠くであって欲しかった。久枝が大変になる事にも何の感情も湧いてこない事が絵里子は不思議だった。むしろ、香苗を心配する義母の様子に触れるたび、絵理子の心は色彩を失っていく景色があった。寂しさを通り過ぎると気持ちが冷えていく。
「私は巾着を無理に作らせてはおりません。お義母さんが手芸などと言うものが、好きだからお手伝いをしているだけのよ」絵里子の悪魔だか、天使だかが微笑んで言う。
 我が子、修の虫の息のような声で絵里子は我に返った。

「うん・・・・・ン、お父さんは今日、何時に帰るの。相談したい事があるんだ。お母さん、聞こえているの」
「聞こえたわよ。なんで、小声でしゃべるの? 言っている事が良く解らない。お父さんは仕事が忙しいから、何時に帰るのか解りません。お母さんが急用で携帯に連絡を入れても返事がある事はない。もう、このごろは怒る気にもなれない。男は社会の中で生きていると言う二面性を絵に描いたような人なのよ。切り替えができる男は一杯いる。仕事の疲れを家庭に持ち込んでもらっても困るのよ。自分が悪いのよ。不器用だから。お母さんだってお父さんの尺度でなんだ、かんだと押し付けられ、思いどおりにならないと口を利かない。決めつけられるのは御免被むりたいわ。女だっていろいろあるのよ。それに聞こえた? さっき出かける時に大声で男にはいろいろあるんだ、とか言っていたけど。それはこっちのセリフだわ、女だっていろいろあるのよ。何ヨ、男だ、女だと分けちゃって。昭和レトロの菊名の家みたい。今は時代が違います」思いっきり宏への我慢していた怒りが口から出てしまった。

修が生まれて半年が過ぎた頃だ。寝がえりに始まり、はいはいをし出して目が離せない時があった。猫の手も借りたいある日の事、宏からの電話で財布を持ち忘れているようだと連絡を受けた。落としたのかもしれないので、確認して欲しいと言われて宏の書斎として使っている部屋に入った。机の上を確認して、すぐにお財布を見つける事が出来た。ふと興味が湧き中身を覗いてみた。お札の数枚を数えてみた。あんまり減っていない。夜遊びはしてないようだ。真面目じゃないと思い、ほくそ笑んでいた。
何枚かの千円札の後ろに写真であろうと思われるものを見つけた。綺麗に薄紙で包まれていたからだ。そっと取り出し切れないように開けてみた。にっこりと微笑むハーフっぽい女の写真だった。隅に「レイラ」とサインがあった。「なんじゃ、この女」はと思って暫く眺めていた。ママ友ランチの時間に間に合わなくなると、時計を確認した。一瞬この女の事をどうしようかと迷ったが、宏からどんな言葉が出てくるのか言わせてみようと、絵里子はわざとお札の間に入れた。宏が気付けば何か言って来るだろうと想い、込み上がってくる不快感を胸の中にしまった。修の泣き声が聞こえる。それにしても綺麗な女だ。抜けるような白い肌。ブルーグレイの瞳。足腰の長さ。

 宏も面倒くさい男だとその時に思った。だからその息子も良く、ひーひー泣くんだわと慌ててミルクを飲ませた日が蘇った。その想像した女の佇む後ろの景色も男にはいろいろあるのだと呟いている。あの時、帰ってきた宏は絵里子が見たであろう写真の事には触れなかった。気になっていたが、月日に流されていた。宏と何か口論になるとあの「レイラ」と言う名前が絵里子の頭に出入りした。

「お母さん、煩い! だから慇懃無礼な女ってお父さんから思われているんだよ」修の声に我に返る。
「修、あんたも煩い。もうお母さん出かけるから好きにしなさい」絵里子は怒りたいのをこらえて飲み込んだ。もう子供ではないのだ。それに慇懃無礼な女って誰の事? この私? 何時から二人でそう呼んでいるの。えっ! 失礼でしょ。初めて聞く言葉に絵里子は狼狽えた。まさか宏が言っている? 息子の修がなんで・・・ 何時から・・・ 宏と共謀しているなんて許せない。絵里子は、今日はスポーツジムに行く日だった。頭の中の澱んだ血が流れて膨張してくる。頭がくらくらしてきた。頬に涙が伝わる。そっと人差し指で拭うと顎の辺りに忘れていた痛みを感じた。
「お母さん、少し話が出来るかな。お父さんが帰る前に聞いてもらえるかな」絵里子の様子に修が戸惑うように言った。
「解った。下で待っています。何か食べる? もうお昼よ」絵里子はまた、足を撫でながら修に背を向けた。怒りも静まり絵里子はまた、辛くなった。会話の少ない日々。時間はあるのに自分ために使う時間は少ない。家族の健康に気を使い、食生活に気配り、食材のために時間を割き、家庭の中でハツカネズミの様に同じ場所で雑務に追われている。自己啓発がないわけではない、こだわりの中で妄想して一日が終わる。解ってはいた。こうした生き方以外には私には出来ない。そんな自分自身にも哀しみが這い上がる。家族に流されたくないけれど、休むこともなく様々な出来事が降りかかる。優先順位を考えると家族を第一にしてしまう。その結果が今の自分だ。結婚して何年たったのだろう。歳を重ねた分、視野は広いはずだ。客観的な判断だってできる。家族とは何なのだろう。こうした大事な我が子に降りかかる出来事も誰にも選択は出来ないのだ。知恵、配慮、才覚を駆使しなければ。私の出番だ。子供と分かち合う愛は減らないはずだ。修には不自由を乗り越えさせてきちんと生きていける大人にしなければと考える絵里子が居た。
 暗い窓から外を見ると暗雲が垂れこんできていた。低気圧が雷を伴い大雨になりそうだった。どこかでぴかっと光る稲妻も見えた。

 絵里子は修の話が何だろうと気になって仕方ない。膝を撫でながら心は上の空だ。鏡で顎を確認したが大事にはなりそうになかった。冷蔵庫からまた、伊香保プリンを出して紅茶を入れた。トースタ―にパンを挟む。御飯があるからピラフでも作ろうかとも考えたが、修の話が気になり自分の行動がちぐはぐだ。一体、何があったのだろう。何の話だろう。頭の中で喪失感もリピートする。納得できない出来事が迎え入れられない自分を想像する。とりあえずスポーツジムは辞めておこう。天気も悪いから。絵里子は着替えを入れたバックを横目で見ながら自分自身に言い聞かせていた。パンにバターをぬってから、そのパンを自分の口に銜えていた。食べるのは私ではないと、慌ててもう一枚を焼く。パンの香ばしい匂いと紅茶の香りが混じって少し蒸し暑くなった気温と混じって漂う。雨音が大きく聞こえる。立ち上がりキッチンの前の窓を閉めた。これで完全に夏が来る。
「修、修。如何したの。ピラフが良い? トーストのパンを食べる? 」と階下に行ってまた、声をかけた。が、声が響くだけで蒸し暑くなった空気で声が澱んでいく。暑い。梅雨は明けたはずなのにと思う。それなのに又、低気圧が停滞して日本列島を覆っているのだ。
昔、結婚して間もないころ朝出かける宏にドアを閉めながら、絵理子は
「今日はお天気が崩れそうね。気を付けてね」甘えて囁いた。
「そうかね。お前の尻の穴と同じだよ。渇いたり、湿ったりだよ」と言いながら片手を挙げた後ろ姿を残し絵里子の前から消えていった。その時の事がお天気情報を気にするとき、いつも蘇る。なんという下品な男なのだろうと。親の顔が見たいと思ったら宏の背中に久枝の柔らかな笑顔が浮かんだ。あの時と同じような雲が流れている。そうか、夏休みだ。夏休みに何かしたいのだろう。留学かな。それもいいだろう。何か欲しいものがあるのかな。あっ、そうか。由美子さんと何かあったのだろうか。いったい、何人で伊香保に行ったのだろう。由美子さんのほかに誰か車に載せていったのかしら。「フィギュア愛」の同好会って何人いるのだろう。知らない事の多さに絵里子は愕然とした。「由美子はもう終わっている」の修の言葉が胸に刺さる。   
 修には修の人生がある。また、トースタ―器に入れたパンが、早く食べてよと、こんがりとキツネ色になり飛び出した。「パカン!」その音にトースタ―器まで馬鹿にするのかしらと眺めていると階段を降りて来る修の足音がする。何故かスリッパの音がしない。素足で降りて来るのか時々ペタッと足が床から離れる微かな音がする。
「お母さん、お腹が空かないから何も要らない。なんだか良く解らない事が起きた」薄手のパーカーのフードを頭からかぶっている。上目遣いに回りを見回しリビングの解放された窓を閉め、エアコンのスイッチを入れた。絵里子と向かい合わず斜めの椅子に座った。ふて腐れているようだ。
「・・・・・・ そのフード何時まで被っているの」
「・・・・・・ うん、なんだか怖い」背中を丸める。
「えっ、何が怖いの」
「うん、誰かにつけられているようで」
「えっっ、この家の中で? 」
「雨が降ってきたから誰も居ないよね。家の周りにも」立ち上がりリビングの窓から外に面した道路を探る様にしている
「誰かいるの? 」絵里子も立ち上がる。同時に修が戻って来てまた、猫の様に背中を丸めて座る。
「実は、帰りの最後のドライブインでね。関越自動車道から高速道路に入ってしまったらトイレ休憩も出来ないからと由美子さんとお土産を物色しながら遊んでいた。関越自動車道の最後のインターなのでいろいろな関越の地方の銘菓がこれでもかと置いてある。それこそ東京では手に入らない銘柄のお米もあるんだ。お酒だって同じだよ。現地の酒造屋さんで地元の人が予約しても本数制限があって手に入らなかったのも置いてある。お寿司の回転ずしのコーナーやら東京の名店が並んでその前に小さなカフェまである。そこで由美子さんが、あれこれ気になった銘柄のお菓子のうんちくを言うので楽しんでいた。帰りの時間に合わせて、由美子さんがトイレに行った。それで一人でスマホのゲームをしていたんだ。すると
「ここ、いいですか?」と聞かれて
「いや、使っています。相手が着ますからと言ったんだよ」
「へ―、仲がいいんだね。昨夜は上手く行ったかい?と変な事を言う。絡んでくるので、席を空けた方がいいと思って立ち上がった。その男から離れようとしたら腕を掴まれた。何をするのですかと言った途端、その男が側にくっついて立ちはだかった。薄い羽織物の脇に抱えているものに僕は気が付いた。バットだよ。金属バット。タオルで巻いてあった。それで怖くなった。話は何ですかと聞くと、あの姉ちゃんには近づくな。と言うんだ。俺の彼女だから、と言った。そこに遠くから由美子さんが歩いてくるのが見えたのか男はもう一度言うんだ。
「あの女は俺のものだと」と凄まれた。言いながら修はパーカーのフードを被り直す。
「えっ! それって脅されたの」絵里子は息子の顔を覗き込む。
「そうだよ。怖いよ。金属バッドを持っているからだよ」
「なんで? 金属バッドが怖いの? なんで持っているの? 野球が好きなんじゃないの」
「お母さん!それで殴られたらどうなるの。おまけにタオルを巻いてある。もういいよ。
お母さんには解らないよ」と修は身体を椅子に沈めてテーブルの下に潜り込んだ。
「でも其のあとは如何したの。由美子さんは気が付かなかったの」覆いかぶさる様に言葉をぶつける。
「僕が呆然として立っていたから、どうしたのと聞かれた。横にいたのにその男はいなくなっていた。周りを探してみたけれど、その男は見つけられなかった。由美子さんを怖がらせてはいけないから、早く帰ろうと促して慌てて車に乗せた」
 絵里子は顎の痛さも忘れて修の話を聞いていた。膝をさすっていた手が両腕を組んで上下に撫でていた。修の恐怖が絵里子に伝わり見えないものが背中を這い上がる。心拍数も上がっていた。修の話の信憑性が如何なのか迷う。話が支離滅裂過ぎて良く解らないが、修の怯えた様子が絵里子に伝わり、怖くなっていった。
 絵里子は修の頭を微かに触りながら聞きたかったことを恐る恐る言葉にしてみた。
「由美子さんとは何もなかったの」一瞬間があった。戸惑うように
「実は、二人だけになる時間が多かった。だけど解ったのは由美子さんが男には興味がない事だった。前に菊名に来た時の帰りに、父親とは小学生の3年生から会っていない事や母親と祖母と暮らしている事などを聞いた。それに最近ではないけれどストーカされた事等も聞いていた。男の人が怖いとは言うけれど男を知らないわけではないらしい。僕はフィギュアではないのに人畜無害の男でも女でもない人みたいだよ。結構口の利き方も乱雑で感情もしおらしい時もあるけど、あまり感情を引きずらない。泣いた後でも、結構けろっとしている。あの子も怖い」
「其のあとは、その男は如何したのかしら」
「解らないよ。運転に夢中だから、後をつけられたら怖いから、注意してバックミラーばかり見ていたよ。由美子さんは寝てしまうしね。菊名の家のおばぁちゃんに会いたいと言うので連れていった。巾着づくりの事もあったからね。其の後はおばぁちゃんから聞いているでしょ。菊名駅まで送って行って駅で別れてまた、菊名の家に車を取りに行く、帰り道で気が付いた。電信柱の人影や、後ろから歩く足音が気になり振り返るけど近くには誰も居ない。怖くなって一旦は駅に戻った。おばぁちゃんの家を誰かに知られて何かあったらいけないからね。渚さんの酒屋に飛び込もうかと思ったけど、迷惑になったらいけないと思い、駅前の交番に飛び込んだ。脅されたこと等を話したけど、聞いてくれた警察官は信じていなかったのかもしれない。何も証拠がない。一応被害届を出すにしても何もない。怪我をした。何かを取られた。とか現実の被害がない。途中からその警察官の後ろに立っていた私服の警官はウロウロしながら僕の事を観察していた。あれは信じていないのかも知れない。気が付いたよ。事件でも何でもないからね。一応聞いてくれただけで、気を付けてお帰り下さい、と見送ってくれた。また、おばぁちゃんの家まで戻る時に誰かの足音がする。振り向くと辺りには誰もいない。良太さんの店に飛び込みたいのを我慢して車に飛び乗り帰ってきた。絶対あの男だ。この家も見張られている」
「修ちゃん、大丈夫ヨ。誰も居ないから。ちゃんと座って。こんな大雨だから外には誰も居ないわよ」と言いながら絵里子にも恐怖が伝わる。雨戸を閉めながら外の様子を伺う。閉ざされた雨戸に吹き付ける雨音だけが大きく心臓と共に響いていた。

 修が自室に引き上げた後で、宏に絵里子は電話を入れた。大変な事がありなるべく早く家に帰ってくるように話した。宏は最初、煩がっていたが、絵里子の怯えた声に「解った」とだけの返事をした。言葉通り早い時間に帰宅した。一通り絵里子の話を聞いて修の部屋に入っていった。
 今後の事ではやはり、息子の事が心配になったと出てきた宏が父親の顔で絵里子にも言う。如何したものかと宏は途方に暮れた。宏の息子を想う気持ちは絵里子にも伝わる。修に心配するなと言ってもベッドの中でうずくまっている。菊名に何かあっても困る。見えない恐怖が修を通して宏にも絵里子にも伝わっていた。修を何とかしなくてはならない。宏が頼りなく思え絵里子は苛立った。
 部屋の窓から庭を見た。雨上がりの澄んだ空気と蒸した熱気が伝わる。疑心暗鬼のアクシデントが無防備に生きる幼さを奪っていく。頭を抱えて宏は修の堕ちた穴を想像する。

 翌日から、怯えて背中を丸めて歩く修が居た。絵里子は修の後を付けて歩く。電車に乗るまでの間、見守っていた。が、数日たっても何かおかしな人影は見当たらなかった。その報告を早く家に戻り聞く宏が居た。修も日ごと元気になって行った。大学の学生課にも宏は連絡を取って息子に何かあったら保護を頼んだ。学生課では、解決に向けて多くの学生を巻き込ませてはならないのでご家庭の方でもきちんと解決に向けて対応をお願いします、と言われた。暫くは修のために休学もやむを得ないと宏は考えた。 
 一か月後、宏は絵里子と相談して香苗に連絡を入れた。香苗はプロバンスで旅行客相手の通訳をしながら離婚に向けて準備をしていることが解った。宏は修の事で相談があり本人から連絡を入れさせる事を伝えた。
 修の留学の意思を確認した宏は絵里子の同意を得て、ひとまず香苗の住むプロバンスで語学学校に入れる事にした。香苗も喜んだ。絵里子は息子の自立のため手放す覚悟を決めた。それまでの葛藤は絵里子自身には生きる事への長く冷えた寒さを伝えた。親子といえども自分のものではない。傷と傷によって深く結び付いて行く事もある。痛みを分け合う悲痛な叫びを伴わない静寂や穏やかな時間はない事も宏と話し合った。家族としての繫がりの根底にある物を考え、修のため絵里子は寂しさも受容した。

 菊名の家から電話を受けたのは数日後だった。浩一が倒れたのだ。おまけに久枝が浩一の入院した病院に付き添うのには困難だと連絡があった。久枝も健康診断で大腸がんの検査に引っかかり再検査の結果、手術をする事になったと言うのだ。絵里子は宏に宣言をした。
「私が出来るだけお世話をします。貴方もお手伝いを宜しく、ね」清秋と言う季語を思わせる絵里子の笑顔があった。
 

番外編-2 宏の場合 黒崎つぐみ

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登場人物
宏   杉本家の長男 
絵里子 宏の妻
修   宏の長男
浩一  宏の父
久枝  宏の母
由美子 修と同じ大学の学生
レイラ 宏の同じ会社で働いていた女性 
渚   酒屋の娘 宏の妹香苗の同級生

「おい、あいつ大丈夫だったのか?」
「え?車? 一応見たけど、キズはなかったみたい」
「ちがうよ。帰って来て晩御飯も食べないで寝たっきりだぞ」
 宏は愛車のレガシーを息子に貸した。1泊2日の群馬県だと聞いていた。
「運転を下手なものに任せるくらいなら、お前が運転しろよ」と普段から言っているので、これまでも父親の車を借りるときは責任をもって一人で運転して帰って来たが、今回は疲れが半端ではないらしい。月曜日の朝、宏の出勤の時間にもまだ起きて来ない。
「そうなのよ。目にクマが出来てたわよ。寝てなかったんじゃない。うちには連れて来なかったけど、菊名には女の子と一緒に寄ったんだって」
 絵里子は2杯目の珈琲を飲みながら少し投げやりに言う。
「え、彼女か?」
「さあ、わかんないけど、前にもその子と菊名の家に行ったことがあるみたいよ。お義母さん『由美子ちゃん』なんて親し気に言っていたもの」
「へえ、初めてだよな。修が女の子と連れだって……」
「同じ同好会の子なんじゃない? お土産って、ほらそれ」
 顎だけを動かし、菓子折りを指す。
 テーブルの上に伊香保プリンと焼きまんじゅうが置いてあった。
「おっ、冷えてるじゃないか」
 そう言うとガラス瓶に入ったプリンの蓋をむしり、パンを放り出してプリンをスプーンで掬った。
「菊名の家に持って行ったら、『宏が子どもの頃プリンが好きだったのよ、持って帰ってあげて』って言われたんだって」
「母さん俺には何にも話さないのに。覚えてるんだな。まだボケてないな」
「またそんな言い方を……。伊香保プリンって有名みたいよ。冷蔵保存だからって、わざわざ修が。今、冷蔵庫から出したとこ」
「この味、思い出すなあ。子どもの頃、母さんが作ってくれたんだ。夏休みはな、菊名神社の例大祭の準備で子どもたちが朝、お囃子やお神楽の朝稽古に集まるんだ。篠笛や太鼓の音がして風情があるんだぞ」
「9月だっけ、例大祭。お神輿担いでたの?」
「いや、見る方だった」
 宏は昔を思い出すような遠い目をした。

 宏は子どもの頃、妹の香苗を羨ましく思っていた。香苗は何でも思ったことを口にする。神経が細かい久枝と、仕事が忙しく、なかなか子どもと遊ぶ暇のない浩一の元で大きくなった兄妹だが、二人の性格は大きく違う。環境的には丘を二つほど超えると大きなコンクリートの塊の競技場が見える、少年サッカーの盛んな地域だ。しかし宏は父親とサッカーをしたことがなかった。坂道が多いことも、近くに児童公園が無いことも理由にしたくはなかったが、小学校に上がって校庭で休み時間に「サッカーしようぜ」と誘われたとき、浩はルールを知らなかった。香苗なら「お父さん、菊名池公園でサッカーしたい。ボール買って」と何の躊躇もなく言っただろうが、宏はそれが言えない。小学1年生の時、ボールを手で止めた途端、同級生から「ハンド!」と叫ばれた。宏はボールに手で触れられるのはキーパーだけだという基本的なことさえ知らなかった。学校から帰ると、菊名池公園へ出かけ広場でサッカーをする子どもたちを見ていた。学区が違うので知った顔はいない。大体のルールを知りたかった宏は見て覚えた。しかし宏は誰からも「サッカーやろうぜ」と言われなくなっていた。体を動かすことが嫌いだったわけではないが、周りからはそう思われていたかもしれない。
 極めつけは小学3年の運動会だった。香苗が1年生に入学した年の秋、それまでは見に来なかった父も、母とレジャーシートの場所取りをして、最前列に陣取っていた。プログラム2番、3年生の50m徒競走の入場行進の時だった。「おにいちゃ~ん」という香苗の声も宏の元へ届いていた。宏はどこでどう間違ったのかわからなかったが、右脚と右手が同時に出てしまった。そのままぐるりと運動場を半周すると、父と母の観覧席の前まで来た。右脚と右手、左脚と左手は棒切れのように固く言うことを聴かない。行進をしている同じクラスの仲間からも「杉本!ひょっとこ踊りみたいだぞ」と囃し立てられた。宏はお神楽でひょっとこ踊りを観たことがある。右脚と右手、左脚と左手を交互に出す剽軽な踊りだった。お面を被っていたのでどんな子が踊っているのかわからなかったが、たぶん小学生だろう。宏は自分にもひょっとこのお面があればいいのに、と、ただ火照った顔をうつ向かせ、行進が終わるのを待っていた。
 しばらくクラスのいじめっ子からは「ひょっとこ」と呼ばれた。遊ぶ友だちもなく、放課後一人で良く出かけた菊名池公園で段ボール箱を見つけた。近寄るとガサゴソ音がする。開けて観ると柴犬のような薄茶色の子犬が2匹入っている。クリッとした目は黒く、まっすぐに宏を見た。尻尾を千切れんばかりに振る。もう宏を飼い主と決めてかかっているような素振りだった。抱き上げるとコロンとした体の弾力と温かさが手と胸に伝わって来る。干し草のような匂いがした。家に連れて帰りたいが、さすがに2匹一緒は宏にも無理があると思われた。子犬とじゃれていると、菊名池でザリガニを捕っていた宏よりは少し年長の男の子が声をかけてきた。
「かわいいなあ、うちの犬、こないだ死んだんだ。その犬によく似ている。その犬もこっちの犬みたいに脚の先の方だけ白くなっていたんだ。ソックスみたいに。これお前んちの犬?」
 彼は2匹のうちの1匹を抱き上げた。
「いや、違う。捨て犬かも」
「お前、何小?おれ篠原小」
「ぼく、菊名小」
宏が連れて帰ることを迷っているのを察したのか、その男の子は諭すように言った。
「1匹ずつ連れて帰ろ。ダメだったら明日またここに来る。飼ってくれる人を探す。コイツがうちの子になってもここに来る。もし母ちゃんがいいよって言ったら2匹飼えるかも」
 明日、また菊名池公園で会うことを約束して、宏は残された1匹を抱き上げた。自転車で来なくてよかった。宏はそう思いながら胸の中の子犬の重みを感じていた。菊名駅のそばまで来ると宏は急に周りの目が気になった。小林酒店の前を通ったとき、香苗の同級生の渚に呼び止められた。
「その犬どうしたの? 飼うの? 見せて! おかあさん! うちで飼いたい!」
「うちは商売してるんだから駄目だよ。散歩は誰がするの? 香苗ちゃんちお庭があるし、香苗ちゃんに飼ってもらってお散歩させてもらえばいいんじゃない」
「さわらせて」
 そう言うと宏の胸から子犬を引きはがすように取り上げた。その途端、子犬は尿をもらし、店先にポトポトと小さな水たまりを作った。
「ほらほら、商品についたら大変だから、これに入れて」
 渚の母親が空の段ボール箱を用意してくれた。
「香苗ちゃん呼んでくる。菊名神社で待ってて」
と、渚は駆け出して行った。その日、子犬は杉本家の一員になった。ポチと名がついた。
 母の久枝が反対したが、香苗が持ち前の突破力で押し切った。宏は自分だったら無理だっただろうと事の成り行きに安堵したが、それは自分の不甲斐なさを認めることでもあった。次の日ポチを連れて菊名池公園に行くと、もう1匹を連れて帰った男の子がボールで犬と遊んでいた。
「大丈夫だったか? おれんちは大丈夫だ」
「うん。ポチっていう名前にした」
「これから時々犬連れて来いよ。一緒に遊ばせようぜ。兄弟だもんな」
 それから散歩係は父親と香苗になったが、時々菊名池公園に行くと、ソックスと名付けられたその犬に会えた。彼とは話が合う。音楽好きなのも一緒だった。

 大学を卒業した宏は、かなり猛勉強し、狭き門をくぐって外資系のコンピューター会社に入社した。宏はそこでハードの分野ではなく、ソフトの開発に携わった。父の浩一にはどこを受けるか相談しなかったが、名の通った会社だったので父も満足そうな顔をしていた。父は何でも重たいものの方が価値があると思っていた世代の人間だ。普段から「このスピーカ―は重いだけあっていい音がするなあ」とか「レンズは重たいと明るくて綺麗な写りをするなあ。高いレンズは重たいよ」とか、よく口にする。しかし時代は変わり、家電にしても家具にしてもコートなど衣服にしても、軽さを追求し、果ては宏の会社のように、もはや仕事内容まで宙に浮きそうだ。今現在も「クラウド」と言っても浩一には理解してもらえないだろう。
 社内の公用語は英語である。社員も2割が外国籍だった。社内のカフェは無料でいつでも好きな時間に好きなものが食べられた。入社して間もなく、宏はそのカフェでひとりの女性から目が離せなくなった。彼女の周りだけ澄んだ空気に包まれているようだ。いつ、どこに居ても彼女が居るのはすぐに分かった。社員証を首からかけている。名前を知るまでに時間はかからなかった。名は「レイラ」。カナダ人だったが、ふとした時にロシアの血を感じる。肌が薄く、抜けるように白い。ブルーグレーの瞳と色素が抜けたような肩までの髪。恥ずかしそうに笑うその笑い方がどこか日本的だった。声は小さいようだった。その声を聞きたくて、いつもそばの席が空いていれば座るようにした。話しかけられずに夏が来た。耳をそばだてると、隣の女性社員とお祭りの話をしていた。国に帰るまでにお神輿を担いでみたい…というような内容だった。「国に帰る」…そんなことがあってはならない、と宏は焦った。唐突だったが
「You can carry a god!」と言いながら立ち上がっていた。それから宏は夢中で菊名神社のことを話していた。
 レイラは白系ロシア人の祖母と日本人の祖父の間に生まれた母とカナダ人の父が結婚し、カナダで生まれた。日本で育った母の話を聞いて日本が好きになったこと、カナダで大学まで過ごしたが、日本で働きたかったこと、父親が手術をすることになったので一旦日本を離れることにしたことなど、気さくに話してくれた。彼女の中には国境なんて意味が無いようだった。体半分のカナダの血が一番濃いが、クォーターのロシアと日本も彼女の中にちゃんと生きていた。
 菊名神社の例大祭は9月半ばに開催される。由緒ある篠原神社とは違って、菊名神社のお祭りは庶民的だ。境内には屋台が並び、昼間は神輿が商店街を練り歩く。女性でも参加できるし、酒屋の渚も毎年パッチを履き半纏を着て神輿を担いでいた。渚に頼めば外国の女性一人くらい潜り込ませるのなんてわけないだろうと宏は思った。レイラと話ができるようになった夏は宏にとって天国だった。もうじき国に帰ることはわかっていたが、連絡が取れなくなるわけではない。デートと呼べるものではないかもしれないが、会社の外で何度かレイラと待ち合わせをした。それは祭り半纏を渡すためだったり、あらかじめ渚に引き合わせるためだったりしたのだが、それでも宏は舞い上がっていた。待ち合わせの駅前で信号待ちをしているレイラを遠くから発見すると、その美しさにまず写真を撮りたくなる。レイラが居ない日本を想像できなかった。
菊名神社の例大祭の日、空は晴れ上がり、これ以上ない神輿日和となった。朝9時に菊名駅にレイラを迎えに行き、一旦宏の家に、着替えるために連れてきた。いきなり外国の女性が家に来て、麦茶の接待もそこそこに、宏の部屋に入り、服を脱ぎ出す様子を見た母の久枝は胸のドキドキが止まらず父の浩一に相談した。
「どういう女なのかしら? 宏にちゃんと聞いてよ」
久枝は息子のそわそわした態度で、レイラが宏にとってどんな存在なのかがよくわかった。1か月ほど前に夫の浩一が職場の同僚に付き合い、錦糸町のロシアンパブに何度か行ったということが久枝に知れ、ひと悶着あった後だっただけに、色の抜けるように白い、手足の細い白っぽい髪の女には久枝はアレルギー反応を起こす。当時、浩一の口から出た「ロシアンパブはとフィリピンパブとはわけが違うんだ」という言い訳が余計に久枝の心を逆なでした。「ロシア人は寡黙で媚びない。黙って飲むだけで異空間の面白さがある」と弁解したが、何を言っても久枝の不信感は増すばかりだった。
「親子そろって外人の女にデレデレと……」
これ以上放っておくと、この外国籍の女性に久枝の悋気が悪さをしそうだった。
浩一は部屋の外で着替えを待つ宏を呼び寄せると
「母さんは反対だぞ。深入りするなよ」
と小声でつぶやいた。

 例大祭が終わり、レイラはカナダへ去って行った。
 丁度その頃、エリック・クラプトンの「Tears in Heaven」が街に流れていた。宏にとっては「レイラ」という曲の切なさの方が胸に迫る。ジョージハリソンの妻に恋をしたクラプトンは「レイラ」という曲を書いた。自分のものにならない女性レイラは彼がこの曲を書いた後、ジョージハリソンと別れ、クラプトンの妻になった。いつかまた会う時が来るだろうか? 宏の中で宏のレイラは幻になってしまった。「レ」の音に今でも反応してしまう。車もレガシーに目が行ってしまった。派手さはないが、揺るがないポリシーを持つその車はどこかレイラに似ている。今の妻、絵里子はレイラのことは何も知らない。宏も「レイラ」を聴くことを封印した。レイラのことを忘れるためでもあったかもしれないが、職場も楽天堂に転職した。その職場で絵里子にあったときに絵里子という名前でエリック・クラプトンを想像したわけではない。どんなときにもうまく立ち回る絵里子は、宏にとって家庭を任せられるパートナーとして上出来に見えた。しかし、自分の手を汚さず、表面的に辻褄を合わせて深く考えない絵里子に対し、心の中で「慇懃無礼の絵里子」とあだ名をつけていた。単身、海を越えて好きな国に飛び込んだレイラとは対極の処世術かも知れない。健康で前向きな絵里子には救われることは多かったが、「レイラならこんな時、どうするのだろう?」と思い出すことが無いわけではなかった。レイラが醸し出していた透明な空気の意味を忘れたくはなかった。
 息子の修が小学生になったころ、一通のメールがレイラから届いた。日本に帰って来たという。また例大祭で神輿を担いでみたいと書いてあった。例大祭の土曜日、菊名の駅に降り立つレイラの姿があった。宏は遠くからでもレイラであることがすぐに分かった。改札口で待ち合わせたが、レイラは駅の外に続く階段を方に体を向けて宏を探していた。あれから10年近く経つ。細い、凛とした立ち姿は変わっていなかった。宏は普段なら自宅からレガシーで来るのだが、お祭りで交通規制されており、やむなく電車で来たのだった。出かける間際に「僕も行きたい!」と修がついてきた。菊名駅は人でごった返していた。改札を抜ける人波を泳ぐようにしてレイラに近づいた。腕には修がしっかりとしがみついている。手をつなぎ直し、空いている手を高く振ると「レイラ!」と叫んだ。
 レイラの目が宏を見つけ、何度も小さく飛び跳ねて手を振った。しかし、宏と一緒にいる男の子を見ると、
「Your boy?」
と修と宏の顔を下から覗き込んだ。
「So cute!」
 シャイな修も「ハロー」と自分から言葉が出た。
 レイラが差し出した掌にハイタッチすると、修はぶつかりそうな歩行者から守るようにレイラのその手を引っ張った。完璧なエスコートだ。駅の構内にもイカ焼きや焼きそば、トウモロコシの露店の賑わいが匂いになって押し寄せてくる。
レイラは修を挟むように並び
「Let’s go!」
 と歩き出した。道幅の狭い所ではレイラ、修、宏の縦一列で歩いた。小林酒店の前に居た渚がレイラを見つけ
「おお!レイラ?」と駆け寄ってきた。
「担ぐ?法被ならあるよ。お神輿もうすぐここ通るから。修君も来たんだ。うちの翔平の法被で良ければ、着る?神輿は大人神輿だから担げないけど、雰囲気だけね」
「髪はまとめてアップしたほうがイナセだね」
「Ⅰ NA SE?」
「そう、イナセ。Cool!」
 渚は素早くレイラの髪をまとめ上げると頭の真上で小さな団子にした。手拭いをねじり鉢巻きを巻く。
「鉢巻きはもっと下。眉の所。汗が目に入らないようにね」
 レイラはバックパックを小林酒店に預け、渚も加え4人で神輿を待った。ほんの短い距離だったが、渚が神輿に入るタイミングを作ってくれてレイラは少し緊張気味にその輪に加わった。すぐにリズムに乗り体を上下させる。観ているものも自然に笑顔になるようなレイラの嬉しそうな様子に、修もずっと手拍子を打っていた。神輿が神社に到着し、修もひと通り露店を満喫すると、「ばあちゃんちに行きたい」と言い出した。
「一緒に行く?」と手を引いてレイラに同行を促したが、レイラはこれから行くところがあると小林酒店から駅に帰って行った。その後姿を宏は修と並んで見送った。
「きれいなひとだったね」
「うん、修もあの人好きか?」
「うん、不思議な感じ。フィギュアみたい」
「そうか、二人だけの内緒な」
「どうして?」
「男にはいろいろある」
 宏は浩一と自分の間に共有する秘密が無いことに気づいた。

 絵里子が修を起こしてくると、2階へ駆けあがって行った。宏は伊香保プリンを食べ終わり、修の顔を見て、出勤することにした。なかなか起きない修に絵里子の声がだんだん大きくなっている。玄関で靴ひもを締めながら階段の上に向かって叫ぶ。
「お~い!ほっとけよ。男にはいろいろあるだから」