第2話 修の場合 芦野 信司(絵も)

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 絵里子がデザインし久枝が縫製、できた巾着をレンタルショップで売るというビジネスモデルは、修も驚くほどうまく行っている。売るものを巾着だけに絞った絵里子の戦略が的を射たのだ。やっぱりお母さんは賢いと修は思う。
 修は小さい頃から絵里子の賢さが誇らしくもあったが、あることから引け目のようなものを感じるようになった。小学生の時だった。何かは知らないが、保護者会の相談会で些細なことにこだわる父兄がいて議事が大もめにもめて収集がつかなくなったことがあったらしいのだ。それを絵里子が口角泡を飛ばしながら理路整然とまくし立てたものだから、その父兄も黙らざるを得なくなった。その時の絵里子の姿が修の担任の目にはよほど眩しく見えたらしく。「修ちゃんのママってすごいのね」と修の小さな肩を揺らしながら言ったのだ。修はなぜかそれがとても恥ずかしかった。修の成績はいつもクラスの真ん中で「すごい」などという評価とは全く無縁だった。
 今朝、修は新しい巾着のデザインを久枝に届けるよう絵里子に頼まれた。修の大学は渋谷にあるので、登校の途中、菊名にある祖父母の家に寄って欲しいというのだ。急ぎの注文が来たので直接持っていって欲しいという。絵里子自身は、他のレンタルショップで商品の売れ筋を研究をしてくると言って出かけてしまった。
 修の今日の授業は午前中の語学が休講になったため午後二時からの「機械工学概論」があるだけだった。その他に四時から所属しているクラブの会議がある。留学生との連携を深める大事な会議があるので出席するようにと副部長の大西由美子から連絡が来ていた。クラブの名は「フィギュア愛を世界に広める会」。文字通りフィギュアを愛する者たちが集まり、切磋琢磨しながらその愛を深め、世界平和に貢献しようというクラブだ。修は、高校生のころ他人に隠していた自分の嗜好がこんなに開けっぴろげに公言できることが嬉しくてならなかった。さすがに大学。同好の連中も多士済々。いつか本物のエヴァンゲリオンを作りたいと工学部を選んだ修も、同好の仲間の間では目立った存在ではなかった。大西由美子は一つ年上の三年生。文学部英文学科で、フィギュア愛好者の国際連携を目指している。来年の部長含みで副部長になったという俊秀である。修にとっては苦手な存在だった。
 家を十一時に出てすぐにスマホのメール着信があった。ザックを肩から外し、チャックを開けてスマホを取り出した。「機械工学概論休講のお知らせ」とある。
「ちぇっマジかよー」修は口を尖らせて舌打ちをした。でもいったん出てきた家に戻る気にはなれなかった。
菊名駅から歩いて十分少しのところに祖父母の家がある。駅前から南に向かう道路を下り、途中の道を北に入り、また右に曲がった路地。その左手に周りの真新しい住宅とは際だって違う昭和の建物がある。灰色のブロック塀を越えて白と紅色の花を咲かせた花水木の枝が伸びている。そして、その下の塀際にしゃがんで草取りをしている老人の姿が修の視界に入ってきた。臙脂のキャップを被っている。そのつばがこっちを向いた。祖父の浩一である。七十九歳になる。浩一は顔を少し上に向けつばで挨拶をしてきた。それはまるで手の平をあげて「よう」と言っている感じだった。修は歩きながら軽く会釈した。
「よく来たねえ」
 臙脂のキャップは、浩一の唯一の趣味であったゴルフのキャップであったが、十年前に腰を痛めてからは草取りのための日除け帽といなってしまっていた。浩一はその帽子を脱いで、修の顔を見上げた。そして、いったん両手を地面につけてから腰を持ち上げ、片手ずつ自分の膝の上に手のひらを押しつけ、腕の筋肉を使って体全体を立ち上がらせた。浩一は、体を起こすだけで難渋する自分自身が腹立たしいようだった。
「まあ、入れ」
 浩一は背を返して「杉本浩一」と表札のある門の扉を開けて入って行った。門内には敷石が三個ほど配されており、その先が玄関になっている。敷石の左右には庭木や草花が植えられてあり、あとはちり一つ無いように掃き清められている。靴脱ぎから框に上がり、左側がトイレと風呂場になっていて、まっすぐな廊下を挟んで右側手前が久枝の部屋になっている。引き戸が開けっ放しになっている。 
 中をのぞくと、畳敷きなのに部屋の隅にテーブルと椅子が置いてあり、テーブルの上にミシンが置いてある。その周りはいろんな端切れが乱雑に積み上げられていて、一部は畳に落ちていた。
「あれっ、おばあちゃんは?」
「ああ、さっき手芸クラブに出かけたばかり。本人は辞めたがっているけど、友達が寂しがってなかなか辞められないそうだ。公民館の親睦会の担当なので、年度切り替えの一月まではやるって言っているけど、巾着作りが忙しくてそれどころじゃないはずなのに何を遠慮しているのか。利害関係も義理も何もなにもない関係なのだから、さっさと辞めればいいんだ」
 浩一は、不愉快そうな渋面を作って、久枝の部屋の戸を閉めてしまった。
次の部屋は茶の間だった。ずっと前は廊下の左にある台所と一対になる食堂兼居間の洋室だったが、浩一が定年退職したのを機に和室の茶の間に改装した。しかしそれは修が生まれる前の話であり、修が知っている限りはずっと茶の間だった。
「懐かしいな」
茶の間は坪庭に面していて、ガラス戸をあけると濡れ縁があり、その先に使われなくなった陶製の白い火鉢が地面に置かれていた。そこに金魚が数匹泳いでいた。修はその濡れ縁に四つん這いになって金魚を見ていたものだった。修が一番よく祖父母の家に遊びに来ていたのは、小学校の高学年の頃だった。父と母は修が一人で祖父母の家に行ったり、場合によっては泊まったりしても少しも気にしていないようだった。逆に、孫を預けることは親孝行と同じだくらいに思っている節があった。でも、修が中学生や高校生になるとクラブ活動で忙しかったためすっかり間遠くなってしまっていた。
 陶製の火鉢は昔と同じところにあったが、金魚の姿は無かった。溜まった雨水の底に藻の残骸のような黒いふわふわした物が溜まっていた。   濡れ縁も雨に打たれて縁が一部腐って壊れていた。
 修は茶の間の端に座って庭を眺めていた。
「お茶、飲むかい?」
「いいや、いらない。あとで自分でやるから」
「そう」
 浩一は電気ポットから茶葉を入れた急須に一人分のお湯を注いでいる。修は、浩一の手を見ていた。もし、久枝が同じことを言ったら、自分はありがたくいただいたろうと思った。久枝なら直前に土いじりをしていたら、石鹸を使って徹底的に洗ってお茶を出しただろうと思う。しかし、浩一の場合どうだったのかというと、台所の蛇口をひねってさっと洗った程度であったのだ。何となくだが、浩一には染み着いたきたなさがあった。
「僕も指名でクラブの会計担当をやらされているので、今日も会議に出なきゃならない。面倒なんだよね」
「お前の場合は社会勉強だからいいよ。ばあさんは先がないんだからもっとわがままになって良いんだよ」 
「そうそう、今日来た目的はこれでした。お母さんのデザインメモ。おばあちゃんに渡してくれる?」
 修は、ザックから取り出した封筒を座卓の上に置いた。
「ああ、ばあさんから聞いているよ。今朝絵里子さんと電話していた件だろ」浩一は、その封筒を下目づかいに見ながら手に取ろうとはしなかった。「絵里子さんがどう思っているか知らないが、私にはばあさんがだいぶ無理しているようにしか見えないんだが」
「巾着作りが?」
「そう。どうせ金になると言うほど金になるわけではないのに。まあ楽しみでやっている分は良いんだが、金が絡んでくると責任が重くなるから、注文に応えようと無理をするんだろうね」
 修は台所に行った。我が家同然によく知っているガラス戸棚からティーカップを取り出し、紅茶のパックをカップの中に入れ、茶の間に戻ってきた。ポットの湯をカップに満たし、また台所に戻っていった。紅茶のパックから茶が染み出すのを待っていようと思ったのだった。少し時間が必要だ。
「でもさ、おばあちゃんは前より元気になったように見えるけど」
 修は台所に立ったまま、浩一を振り返ってそう言った。
 浩一は、サイドボードから本を取りだしていた。やっと取り出した本を開けて、背を丸めてのぞき込んでいる。
「そう見えるかね。でも、無理しちゃいけない」
「何、読んでいるの?」
「自分が書いた本だよ。ちょっと忘れたことが気になって確かめているんだ。昭和五十七年の中央執行委員会での誰かの発言を思い出したんだ。顔は今でもはっきり思い浮かぶんだけど、何という名前だったか」
 修は、浩一が過去の思い出の中で生きているんだと思った。急に浩一の姿が遠ざかって行くように見えた。
紅茶のパックの残り滓を流しのゴミ入れに捨てて、修はカップをお茶の間に運んできて、縁側に近い元の席に戻った。お茶をすすりながら、本をのぞき込んでいる浩一を見ていた。
 本の背表紙に「私の労働組合史」とある。昭和十四年生まれの浩一が大学を卒業後就職したのは、大手石油会社だった。そして、入社後まもなく労働組合運動に没頭し、組合専従となって最後には中央執行委員長を務めた。本は六十歳の定年後、五年をかけて完成させたという労作だった。しかし、この本を巡っては浩一と久枝の間に確執があった。久枝はこの本を憎んでいた。修自身、久枝の口からその話を聞いた。
理由の一つが、大それた題名の自分史を二十冊も出身母胎の労働組合に送ったことだ。
「誰も読みやしないよ。自分がどんなに苦労したのか。自分がどんなにがんばってきたのか。そんな自慢話ばかり並べた話を誰が喜ぶものか。自分が戦後の労働組合史の一ページを飾っている位に思っているのね。後輩に笑われるのが関の山だということが分からないんだから。その上、あっちこっちの図書館に送りつけたって言うから開いた口がふさがらない」
 でも、久枝が本当に怒っているのは、本の中に久枝との馴れ初めが描かれているからだ。組合活動が盛んだった昭和三十年代、あちこちの労働組合に演劇部が生まれて、その中で二人は出会ったと書いてある。
「出会ったのは事実だから仕方ないけど、自分は演出を担当し才能があったみたいなことを書いてあるんだから、うぬぼれやよね。それに私のことを『エキゾチックな目をした大根女優』とこき下ろしている。どうせ大根ですよ。でも書くことはないでしょう。なにが『エキゾチックな目』なものか。自分が一重で私が二重だったというだけじゃない。バカみたい」
 修は、悔しがって話していた久枝の顔を思い出しながら、本を眺めている浩一の横顔を見ていた。
「ねえおじいちゃんは、公民館がやっている老人クラブみたいなサークルに行ったことはあるの?」
浩一は本から目を離した。
「ないよ。くだらない、おしゃべりしているだけのクラブだろ。それにああいうところに行くのは女の人だけだろ」
「でも、行ったことないんでしょ」
 浩一は、本を閉じた。
「まあ、誘われて一回か二回か行ったことがある。でもね、私とは性が合わなかった。それに公民館の人間の役人根性が癇に障って、やっていられないと思ったね。何も無理してそんなところに行く必要がないから」
 おばあちゃんは必要あるのかな?家にいると始終おじいちゃんと顔を付き合わせていなければならなくなる。そう考えると、おばあちゃんには必要なのかもしれないなと修は思った。
「ばあさんは他人に合わせ過ぎなんだよ。だから他人に左右されていつも右往左往している。絵里子さんと仲の良い嫁姑をやっているけれど、本当はどうなんだろう。ばあさんは絵里子さんの顔色ばかり見ないで、嫌なものは嫌と言えばいいんだよ」
「えーっ、巾着作り嫌がっているの?」
「いや、苦労ばかりしていると言いたいんだ。だいたい目が弱くなっているのに、飯を作るのも忘れてミシン掛けに没頭しているんだから、体に毒だ」
 修はふと気づいて腕時計を眺めた。午後一時近くになっていた。
「そろそろ、大学に行かないと」授業が急遽休講になったことは伏せていた。「そう言えば、おばあちゃん、遅いね。おじいちゃん、腹減ったでしょ」
「いや、いいよ。たぶん、帰りがけに何か買ってくるだろうから待っているよ。いつものことだから」
 修が玄関で靴を履こうとしていると、浩一が手に巾着を一つ握って見送りに来た。
「ばあさんから預かっていたことを忘れていた。これを渡すように言付かっていたんだ。修へのプレゼントだそうだ」
 修は手を出しかねた。これを持って大学に行く自分を想像すると格好悪いなと思ったのだった。
「本当かどうかは知らないが、若い人に人気があるようだと、ばあさんは言っていたけど」
「さあ、僕、そういうことはわからないけど、一応、貰っておこうっと」
 修の気が変わったのは、さっきスマホをザックから取り出すのに苦労したことを思い出したからだった。そう言えばいつも苦労している。電車のパスも小銭入れもハンカチも、巾着に入れておけば簡単だなと思ったのだ。それに案外格好良いかもしれないと。

 大学の部室に着いたのは、二時だった。四時からの会議には早すぎるが何もすることがない。コンビニで買ってきたサンドイッチをゆっくり食べるにも部室はちょうど良いかな。修はそんな気持ちで、部室のドアを開けた。
 誰もいないことを期待していたが、クラブの幹部たちがすでに集まっていて、深刻な顔を付き合わせている。会議開始の時刻を間違えてしまったのかと修は思った。修は身を縮め、会釈をしながらドアを閉めた。
「杉本、遅いぞ!」
 由美子の声だ。みんな笑っている。
「冗談よ。どちらかというと早すぎかな。どうしたの」
「授業が休講になったので昼めし食おうと思って。邪魔ならどこか外に行きます」
「なんだそんなこと。そのテーブルの端が空いているから使ったら。今は幹部会の最中だけど、会計係も聞いてもらっていた方がいいから」
「はあ」
 修はパイプ椅子にすわっている幹部たちの後ろをこっそり通り抜けた。皆は元通り腕を組んで考え込んでいる。誰もが修の存在を無視しているのに、由美子だけは修の方をじっと見ている。修はテーブルの端っこで巾着のひもをゆるめて、サンドイッチと野菜ジュースの紙パックを取り出した。紙パックにストローをさして飲もうとしたら、まだ見ている。修が由美子を見つめ返すと、やっと由美子が口を開いた。
「杉本君、良い物を持っているわね」
 皆が修の方に目を向けた。
 修はストローを口から離した。
「何ですか?」
「それ、巾着?」
 由美子が近寄ってきて、修の巾着を手に取った。横から見、底から見、袋の内側まで覗く。
「明るい布とシックな布を縫い合わせたデザインもいいし、裏地がちゃんとついていて高級感もあるし、良いもの持っているじゃない。どこで買ったの?」
「これは、母が考えたデザインを祖母が縫ったもので」
 由美子は、急にがっかりしたようで声を落とした。
「じゃあ、売っていないものなのね」
「いやあ、レンタルショップで売ってもいますが。何か?」
「どうみんな、これにしない?」
 由美子が幹部会のメンバーを見渡した。そして、テーブルに置いていた修の手の甲に自分の手のひらを重ねて言った。
「今度の留学生との交流会で何をおみやげにしようかと悩んでいたとことなのよ。私、気に行ったわ。ところで、値段は一個いくら?」
「さあ、千円くらいだったかな」
「十個、十日間で出来る?」
 修は、自分の左手に置かれた由美子の手のひらのぬくもりが気になってしょうがなかった。修の方が大きい手なのに、罠にかけられたネズミのように身動きできないのだ。修の頬は上気していた。
「待ってくださいよ。作っているのは八十歳近いおばあちゃんが暇つぶしに作っている物ですから」
「大丈夫よ。可愛い孫のためだもの」
 修の頭の中はパニックに陥っていた。何?可愛い?誰が?その辺がよく分からない。手があったかい。え?おじいちゃんが怒っている。修が  なんと答えて良いか分からずに黙っていると、ネズミの罠の温もりがさっと消えた。
「今日の会議は出席しないで帰っていいから。その代わり、おばあちゃんにちゃんと頼んできてね」
 
 修にとって今日一日は全く奇妙な日だった。休講が二つ、クラブの会議も出席しないでいいことになった。おまけに巾着の注文まで舞い込んできた。連絡をする必要があるからと由美子のメルアドも聞き出した。 
 修は校舎を後にしながら、おばあちゃんはこの注文を本当に喜んでくれるのかなと考えていた。


この記事へのコメント

  • カラーピーマン

    芦野 様
    第二話拝読いたしました。修の視点で絵里子と久枝との新たな関係性が見え、お話自体に深みが出て引き込まれました。修の出来過ぎた女性に対する嫌悪感? 劣等感?(的外れだったら申し訳ありません)や、頑なに昔にしがみつく祖父の気持ちにも共感するものがあります。次回はどうなるのか、とても楽しみです。ありがとうございました。
    絵もお上手ですね。
    2021年05月03日 17:56
  • かがわとわ

    カラーピーマン様。
    いつもコメントありがとうございます!
    2021年05月03日 19:47
  • カラーピーマン

    かがわ様
    こちらそ楽しく拝読しています。ありがとうございます。
    先程の第二話へのコメントなんですが、>修の出来過ぎた女性に対する嫌悪感? の「嫌悪感」は不適切な表現だったと反省しております。嫌悪感というより苦手意識、と書くべきでした。語彙の貧しさゆえ、お許しくださいね。
    これからもリレー小説、楽しみにしています。
    2021年05月03日 20:01
  • かがわとわ

    カラーピーマン様。
    個人的には、「嫌悪感」全然気になりませんでした。
    このあと、作者からもコメント入ると思いますが、
    「気にならなかった」だと思いますよ。('◇')ゞ
    お気遣い、ありがとうございます。
    2021年05月04日 09:35
  • 芦野信司

    カラーピーマン様
    コメントをいただきありがとうございました。
    フィギュアオタクの修はどこか劣等感があるのだろうと思って、絵里子や由美子に対する矛盾する感情で表現しようとしました。
    浩一の姿は、その修から見てももっと孤独。近所でこういう人が何人かいます。
    2021年05月04日 10:26