第5話 久枝のストーム  麻如莉樺

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 登場人物 
 杉本 久枝  杉本 浩一 
 杉本 絵里子 杉本 宏  
 杉本 修   大西 由美子
 ギルバート香苗  ギルバート・ジャック 
      
 その夜、雨雲レーダーの予報どおり、食事の終わった頃からバケツをひっくり返したような雨に変わった。古くなった家のあちこちで大きな音を立てている。
久枝は濡れ縁がまた、腐ると思いながら
「修は雨に逢わずに帰ったかしら」
「由美子さんって言ったね。爽やかな春の香りがするようなお嬢さんだったね」浩一がご飯粒をカッターシャツの襟もとに二粒くっつけて、嬉しそうに言う。顔の中の筋肉は何処も緊張感はなく、締まりがない。
「貴方、ご飯粒付いているわよ。それに修の事を言っているのに、若いお嬢さんの事しか頭にないの」つい、言葉がきつくなる。
「なんだよ、修か。うん?ご飯粒、何処に付いている」と口の周りを手の平でなぞる。箸が久枝に向けられて輪を描く。
「あのね!・・・ もう、いいわよ。ご飯を床に落とさないでくださいね。自分の足で踏んでも気が付かないのだから。床に伸ばしてガサガサにして」憎々しげに、ボソッと言った。     浩一は垂れて二重になった顎でシャツの胸元や襟元を見る。
「早く片付けて寝て、いいよ」同じようにボソッと言う。
「貴方の指示は何なのよ。その命令調は。自分の食べた物ぐらいは片付けてよ。偉そうに言わないでください。嫁の絵里子さんなら言葉のDVと言われるわよ」久枝はついに、大声を出した。疲れていた。孫のためとは言え無理をした。首から肩にかけて動かす方向で何とも言えない重さと何処からか這い上がる鈍いしびれを感じていた。
 浩一は黙って席を立ち、食器を流し台に運んだ。
「ちゃ、え、チャン。これは、ここに置いておくの」と久枝の食べた食器類をそのままにして,残してある佃煮を片付けようとしている。
「何よ。自分だけの食器を片付けて。佃煮は置いておく決めた場所があるの。貴方は冷蔵庫を開ける時間も長いし、整理してくれるのはありがたいけれど、使いたい食材が無くなっていたりするから探すのが大変なのよ。それに、ちゃえ、チャンって何!盗み聞きした、のね」
「うちの冷蔵庫は腐らせ庫だからね。僕が整理しないとカビだらけだ。ほら、これは食べるの?」と歌うように言いながら久枝に見せる。
「それは、捨てるの。あのね。貴方、粗大ごみって言っていたでしょ。あれは私の事でしょ。影に隠れて言わないで私に正面きって言ったら、どうなのよ」
「私は何も言っておりません!」浩一はおどけて手を横に広げて肩を上げた。おまけに歌舞伎役者の様に目を剥いて言う。
「フン!私が粗大ごみなら貴方は、ボロ雑巾よ。吊り下げられたまま渇いて固まり、落ちてそのまま床に突っ立っているボロボロ、のボロ雑巾」と言いながら頭痛が酷くなってきた。涙をにじませながら言う久枝に
「もう、寝ろ!うるさい!」浩一も声を荒らげた。

 明け方近くだった。昨夜からの雨雲がいったんは東北に抜けたが、さらに低気圧を連れて関東地方に近づいていた。雲の流れも速い。突風が時々吹き付け、庭木の伸びてきた小枝と黄緑の葉をガサガサと揺さぶり、長い枝が大きく軋む音と重なっていた。

久枝はベッドの中で声が出ずに口をパクパクさせていた。その声が動物のようなうめき声になっていた。
 久枝は海にいる。大波に押され浜辺に押し上げられる。押し上げられた場所で這い上がろうと砂を握り、爪を立てる。膝をおり、四つん這いになり起き上がろうとする。その途端、覆いかぶさって来た次の波が、強烈な勢いて足元の力を奪い身体ごと久枝を連れて沖に引いていく。久枝の身体も足も海の中に引き戻される。犬カキの様に手足をバタバタするが、波と共に身体も木の葉の様に渦巻きグルグル回りながら沈みこんでいく。落ちていく。周りに娘の香苗の筆箱やバレエシューズ、チュチュが回っている。チュチュはバレエの発表会の時、久枝が縫ったものだ。苦しい。息が出来ない。手を空に向けて助けて!と叫ぶ。潮の流れが渦を巻き又、久枝の身体は海上に押し上げられる。後方は真っ黒な漆喰の闇夜だ。前方の空は黒い雲が伸びきったイカの様に流れ、頭の長い吸盤があちこちに絡むように澱んだ白い空と濃淡を作っている。真綿をのばした様な厚さの曇の間からの光が、地平線はここですと主張している。大波が後ろからうねり、また、巻き込むように久枝の身体を強烈な力で砂浜の方に押し上げていく。押し上げられた波打ち際で今だ!と思いながら這い上がろうとすると、次の大波が久枝の身体をまた、海中に巻き込みながら引いて行く。
 その様子を香苗が、久枝の母のお祖母ちゃんと一緒に俯瞰している。久枝は、私は何処にいるのだろうと思う。ここはハワイだ。でも少し違う、伊豆大島の沖?と夢の中で感じている。砂浜に綺麗なドレスを身に纏い、おいで、おいでと、手を振り腰も振っている綺麗な若い娘が微笑んでいる。久枝は次の大波が来たらサーフ・ボードに乗って大波のトンネルを抜けるのだ。と鼻息を上げる。だが、その大波はなかなか来ない。呼吸が出来ない。助けてとまた、空に手を伸ばす。久枝の母が少女のころの香苗と一緒に空から手を差し伸べる。香苗が困ったような微笑みを浮かべている。香苗・・・と呼んだ。すると「お母さん助けて。お母さん何処にいるの」と言う。「何処にいるのって、ここヨ」としゃべろうとしたが、声も出ない。
呻き声が、押し出すように久枝の寝室から漏れた。

「おい、久枝。久枝。どうした」浩一に声を掛けられた。
浩一は息子の宏が就職して出て行ってしまった隣の部屋の寝室で、久枝の唸り声で目が覚めたようだった。
「あっ!誰!」
「誰って、他にいるのかい」浩一は不愉快そうに言った。
「アー、アー、私・・・ ・・・ 有難う。助けてくれて。海に居たのよ」
「なにを婆さん言っているのだか、朝から疲れる話だ」浩一はぶつぶつ言いながら自分のベッドに戻って行った。
 久枝は夢を見ていたことに気づいた。首のあたりがじっとりと汗ばみ、おでこにも髪がへばり付いていた。背中も汗ばんだように湿っぽい。脂汗だった。
久枝は覚醒して、身体を起こそうとした。途端に激痛が走った。肩が痛い。首が回らない。どうしたのだろうと思うと心臓が徐々に波打っていく。起きられるのだろうか、とベッドから足を下し立ち上がろうとした。すると、首が重い。下を向くと眩暈がした。無理に力を入れようとベッドに手をついた。今度は思わず悲鳴が出た。
「ヒッ、肩が痛い。貴方、ねぇ肩が痛い」左手で手首をそっと持ち、上げようとした。少し
肩は上がった。だが、二の腕は下がったまま肘は折り曲がるが二の腕が上がらないので久枝
の口元までは届かない。力が入らない。ダランとしたまま、腰の辺りでやっと肘は床と平行
になり九十度までは曲がる。
「あれっ、歯磨きも顔も洗えない。どうしよう。どうしよう。本当にどうしよう、巾着十個の刺繡。痛みが何処なのかも判らない。首も回らない。どうしよう。ねぇ!起こしてよ。私、起きないと」
「朝からぐちゃぐちゃうるさいなぁ、婆さんぼけたのか?ほらほら、人の事ボロ雑巾なんて言うから、自分が、すか、すか、の骨になったんだよ。それに起きているじゃないか」と浩一は呆れたように言う。
「・・・・・・お願いです。着替えたいです。服を着たいです。それからタクシーを呼んでください。病院に行きます」久枝の目許から涙が足下に落ちた。

 タクシーで乗り付けた菊名駅のすぐ近くの医療ビルの中の四階の整形外科で、診察を待ちながら、久枝は自分の身体がどうなるのか不安だった。さらに長い時間座っていられない事が解った。下を向くと頭痛が酷くなった。気持ちも悪い。行儀が悪いが待合室の椅子の背もたれに首を載せるように腰をずらした。
「如何しよう、巾着に付ける名前の刺繍。二、三日で、治るかしら。でも、この肩ではとても無理だ。この首の重さは以前に起きた事と同じだ。変形しているのだ。下を向き続けて根を詰めたせいで疲れたのだ。これでは何もできない、ミシン刺繍はとても無理だ。修に早く連絡しなければ。でも、どうしたら良いのだろうか。せっかく巾着は出来上がっているのに。それに、名前を入れることになった。でも、たかが、ミシン刺繍だ。そうだ、もしかしたら絵里子さんでもできる。私が側に付いて教えよう。後はミシンがやってくれるだろう。あゝ、気持ちが悪い。横になりたい。肩に感覚がない。」

「杉本さん、診察室におはいりください」診察室から待合室に呼び出しの声が聞こえた。
看護師が座っている患者を目で追いながら「杉本さん」と小さく声を掛けている。眼があった久枝は軽く左手を上げた。歩み寄った看護師が「立てますか」と声をかける。久枝は軽く首と顔を横に振る。するとまた、首に痛みが走り顔も歪んだ。看護師が「失礼しますよ」と腰に手を廻し、側のあった車椅子に久枝を載せた。
症状と原因となる経緯を聞いた医者がレントゲンの指示を出した。検査技師のお兄さんが「お一人ですか?」と聞く。黙って頭を少し下げた久枝に「生活の自立が今は難しそうですね」という。
X線検査を待つ間、久枝の心は暗く閉ざされていく。
「今朝も動けない私を浩一は優しく扱ってくれなかった。タクシーを待っている間に雨が上がった空を仰ぎ見て、縁側を指さして、ここはもう腰かけたら壊れるね。と言う。おまけに近いから送ろうかと言う。粗大ごみを運ぶカートを指さしていた。浩一は自分が歩く事もおぼつかないのにカートなんて押せない。その上、カートでゴミではなく私を運ぶなんて、なんという事かしら、本当に悲しい。でも、こうして一人ですかと聞かれたら浩一が頼り。私がいない間どうしているかしら。心配しているかな。ご飯は食べたかしら。浩一の壊れ方を見ていると私の方がまだ、動ける。高齢になってからの三歳の年の差は大きい。頑張らなくちゃ。子供達に迷惑はかけたくない。それよりも香苗はどうしているのだろう?イギリスで元気にしているのだろうか。今朝の夢の中に確かにいた。あれっ、お祖母ちゃんと一緒にいたみたいだ。なんでかしら。と言う事は・・・香苗は生きているのかしら。まさか、生きているに決まっている。お祖母ちゃんが死んで何年になるのだろう。香苗からは連絡が暫く来ていない。」あれこれと浮かんでは飛んでいく思考が、見えない、聞こえない、リアルな娘の姿を求めていた。

「杉本さん、首のX線ではそんなに悪くなっていない。以前のこちらが写真です。S字のカーブは杉本さんの場合少し伸びていて綺麗ではないのですが、変化はありません。少し物理療法で引っ張ってみましょう。後、この肩ですが、今日は痛み止めと栄養剤を肩に注射します。今夕には歯磨きできるぐらいの高さまで上がるはずです。力も入るはずです。まあ、無理して歯磨きや洗顔しないで身体を少し休ませてください。ミシンを一日中かけていらしたと言う事でしたが、お好きな事は判りますが、根を詰めないでくださいね。明日又、診察とリハビリに来てください」
「解りました、有難うございます」と挨拶をする久枝にほんの少しだけ医師は笑みをみせた。回転椅子に座っていた医師は看護師が注射を用意している間も次の患者の待つ診察室に
移動していった。その溌剌とした言動と動きが、久枝の中で若かりし頃の浩一と重なる。
医者の背中に向けて久枝は歳を重ねていく機能の衰えや辛さ、無情の寂しさは解らない。と投げかけた。足漕ぎで移動するから背中にお肉が付いているのよ。と心の中で呟いた。
「少しチクッとしますよ。」
「イテテテててて、て」
「そんなに痛いかな。もう少し我慢、我慢、はい、終りましたよ」緊張して固まり、だんだん小さくなる久枝に若い看護師が
「今日はお風呂には入らないでくださいね。お風呂は雑菌も多いので」と言う。
「肩を三角布で吊りますか、これだけの骨がブラ下がっていますからね。吊ると楽ですよ」
「でも、首が痛いから。無理です」
「そうですか。じゃあ、おやめになりますね。帰れますか。受付でタクシーを呼べますよ。
お大事に」
医師の言葉に少し安堵した久枝は、若い化粧の濃い看護師に何か冷たさを感じた。同じような歳だろうか、絵里子の顔が浮かんだ。
 そうだ、絵里子だ。絵里子に連絡しなくては。可愛いい孫の修ちゃんが可哀そうなことになる。所詮他人のお母さんが育てたのだ。絵里子の母親の顔も浮かんだ。どのように言おうか、絵里子に。感情が解らない。何を考えているのか。私をどう思っているのか。困ったな。拗れたりしたら困る。せっかく宏の家族を大切にしてきたのに。宏のために気を使ってきたのに。これから先の私たちの問題もある。どんな老後が待っているのかは誰にも分からない。とりあえず、娘の香苗にも帰ったら国際電話しようFacetimeとやらで、つなげてみよう。イギリスでもこの、アイ・フォンならできるはず。ラインでもできるはず。渚ちゃんに教えてもらおう。ぶつぶつと泡立つ想いと共に、待合室に迎えに来たタクシーの運転手さんと共にとぼとぼ歩きながら、病院を後にした。歩くのもつらい。やっとこさっと、乗ったタクシーは、息を整える間もなく家に着いた。

 家に帰ると浩一がいなかった。ふと玄関に覆い被さる花水木を見上げると葉っぱが丸くなり、小さく縮れている。花も昨夜の嵐で落ちてしまい、わずかに残っている花も腐った桃のような黄土色だ。じっと眺めていると毛虫が付いている。アブラムシがブツブツと密集して葉が丸まっているようだ。今年も消毒の季節がやって来た。誰がしてくれるのかとじっと眺めていると声を掛けられた。
「奥さん、杉本さん」となりの家の奥さんが不機嫌そうに眉に力が入った顔を久枝に向けていた。
「あらっ、今日は。よく降りましたね」
「杉本さんの所の毛虫が塀を伝わって家のツバキに付いているの」
「えっ、うちの毛虫が」
「そうヨ、だから今パパが、消毒薬を買いに行っているのだけど」
「解りました。塀の場所にかかっている木は切りますね。全部短くしますね」
「宜しく、ね」絵里子と同じ歳ぐらいの奥さんはクルリと背中を久枝に向けて、自分の家のドアをバタンと閉めた。
その様子を玄関の角で聞いていた浩一が
「お帰り、肩は如何した。上がる様になったのか」と聞く。
「貴方、どこに行っていたの」
「散歩さ、少し腰が痛むので歩いて来た」
「ねぇ、聞いていたでしょ。うちの毛虫だって。椿の方が毛虫の出番が多いのに」
「なんだかね。いちゃもんかな。隣のご主人に会ったら毛虫に名札を付けましたと言っておくよ」久枝は開いた口が塞がらない。もっとこの人は壊れている。と思った。

一休みをしたかった。だが、香苗の事が頭から離れない。気になっている巾着の件では、絵里子に相談するしかない。優先順位は極楽とんぼの絵里子だ。寝室に入り絵里子の携帯に電話を入れた。
呼び出し音はするが、出ない。暫くしてから掛け直そうと思ったが、修の顔が浮かび由美子の顔が浮かんだ。躊躇ったが早く連絡して今の状況を何とかしたいと願い、続けて電話を掛けた。三度目のコール音の後、絵里子の携帯は留守電に切り替わった。一瞬、久枝は戸惑った。が、
「絵里子さん、急な事ですが貴女に修の事で、大切な用事があります。連絡をお願いします」と入れた。

 寝室で横になった久枝は携帯を握りしめていた。絵里子は刺繍が出来るだろうか。電話は何時来るのだろうか。刺繍はミシンがやるのだ。私が教えたらできる。と考えが空回りする。深い吐息を出した。少し、落ち着く。肩からまた、痛みを感じる。慌ててそっと左手で右手を胸の場所に置いた。少し肩を上げてみた。今朝よりは上がる。が、万有引力に負けて重さだけを感じた。浩一は居間にいるようだ。また、マッサージチェアに座り、寝ているのだろうか。お腹もすいて来た。浩一は何か食べたのだろうか。
天井のクロスの沁みを見つめていると脳裏に出入りする香苗がいた。何故か悲しそうだ。香苗と小さくまた、呼んでみた。心配が増幅していく。安否を確かめなければと携帯を眺めた。
香苗の夫のギルバート・ジャックの片言の日本語が頭の中で聞こえる。香苗、香苗と、たどたどしく呼んでいる。今朝の夢が思い出された。何かが起きている。母親の直感が心臓の鼓動を早めた。落ち着こうと考え、絵理子と修の事をまた、想った。すると、由美子の顔と大西と言う苗字に引っかかる人がいた。
 寝室の窓側の壁に駆けられた油絵を見た。久枝の上司が書いた油絵だ。「縁のある人は何処かで、何かで繋がっている」と言っていた久枝の母親の言葉を思い出した。
 階下で固定の電話が鳴っていた。起き上がり、手を挙げてみた。肩の痛みが軽減している
 久枝は、絵理子さんだろうと思うと少し心が和らいだ。「相談しなければ」携帯を持った右手が胸の前で左手と重なった。
「誰かが側に付いていてくれればミシン刺繍は明日から少しは、出来そうだ」久枝は階段の手すりを右手で握り、確実に一歩ずつゆっくり階段を降りた
 浩一の声が聞こえた。
「香苗、香苗。久しぶりだな。元気か」香苗からの電話だった。

この記事へのコメント

  • カラーピーマン

    第五話、拝読いたしました。
    浩一と久枝、長年連添っている夫婦の行き違いや溝が伝わって来ました。読みながら、アルアル、と呟いてしまいました。
    私的に気になっていた香苗からの電話、これからどのように展開していくのか、気になります!! ありがとうございました。
    2021年05月24日 17:36
  • かがわ

    カラーピーマン様。
    いつも速攻コメント、ありがたいです!
    感謝!
    (*´▽`*)
    2021年05月25日 12:30