第8話 浩一と翔平 藤村邦

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登場人物  
門脇やえ (2011年の震災で90歳で死去)
杉本 久枝 (76歳)旧姓門脇
杉本 浩一 (79歳)    
ギルバート香苗 (48歳)長女
ギルバート・ジャック(52歳)香苗の夫
小林 渚  48歳 小林酒店の一人娘
小林翔平  27歳 渚の長男  
    
 浩一が蓮勝寺の角を曲がった時である。「ガガガ、ガガン」と激しい破壊音が聞こえきた。昨日まで、そこにあった歯科医院のコンクリートの建物が重機で壊されている。ティラノザウルスに喰われたような無残な医院の姿が目に入ってきた。
――結局、息子は戻らなかった。
 山村歯科が5年前に閉院になった時、近隣住人の多くは二代目が帰ってきて再開することを期待していた。しかし、いつになっても医院は再開しなかった。その代わりに駅前にはインプラントや審美歯科という看板の洒落た歯科医院が三軒も出来ていた。
――私の家も息子や娘によって壊されてしまうのだろう。
 そういった思いと一緒に、激しい落胆と悲壮感が浩一を襲った。浩はマンションを買っているし香苗はロンドン在住だ。久枝と私がいなくなった昭和の家を使うような人は誰もいない。
 昔から変わらないのは渚の店だけと、浩一は気を取り直し「よいさ、よいさ」と三点杖でリズムを付けながら、小林酒店に向かって歩く。杖の使い方を工夫したら早足で歩けることを最近は知り、少しだけ若返った気持ちになる。
 小林酒店の前にはビールケースを抱えた渚の息子の翔平が、赤い野球帽子に黒いTシャツを着て立っている。「こんにちは」と言いながら、帽子をとって浩一に頭を下げた。
「手伝いかい」
「店長見習いです。俺、この店を継ぐんですよ」
「へー」
「結婚して、身を固めようと思ってるんです」
 変わっていく菊名にも必ず残る場所がある。
小林酒店に来る度、浩一は変わらぬ風情から安堵をもらっていたが、孫までこの店と継ぐとは嬉しい限りだ。店の奥の壁に飾ってある先代店長の写真が今日は微笑んでいるように見える。
 写真を見ていると香苗が大学を卒業した日のことが思い出されてきた。  
 香苗は同級生の渚がいたので、幼い頃は、私と一緒にこの店に出入りしていた。浩一の横に座り、酒のつまみの「あたりめ」や柿の種を食べていた。
 娘の卒業後の留学先が決まったので小林酒店に一杯やりに行こうとすると、香苗が「今日は私も行くわ」と言った。小学六年時以来、10年ぶりに父娘で角打ちに出向いた。
「香苗もビールで、いいだろう」
 瓶ビールで乾杯しようとした時、店長がもう一本ビールをもってきて自分でグラスに注ぎ「香苗ちゃん、卒業おめでとう」と言ってくれた。その後から、一歳の翔平を左手に抱っこして、渚が花束とプレゼントらしきリボンのついたものを持ってきて「香苗、卒業と留学おめでとう」と言った。次々にやって来る角打ち呑み仲間が加わり、店の外も中も一杯になり居酒屋の送迎会のような状態になった。缶詰や乾きものが簡易テーブルの上に並び、ワイワイと渚や香苗を囲んで話しは弾んだ。
 「翔平君、覚えているかなあ。ほら、このあたりに机があってさ、店の酒やビールが飲めた。外には二つ積んだビールケースの上に板が置いてあって、丸椅子もあってね、みんなでビアガーデンみたいに飲めたんだよ。今くらいの時間になると住宅から人がやってきてね、楽しかったなあ」
「覚えていますよ、お爺ちゃんが亡くなる時までやってたし、歯医者さんを家まで連れて帰ってあげたこともあったから」
「三代目店長になったら角打ちを、やってくれよ」
「母さん、角打ちだって」
「今はね、条例だとか許可とか大変だし、昔のように、こうした場所で飲むお客さんもいないの。だいたい店に買いに来るお客も殆どいないんだから。今の時代、コンビニの方が便利だしね。この店が続いているのは商店街の居酒屋が増えたおかげなの、仕入れが伸びただけなのよ」
 菊名のこの店にも時代の変化が押し寄せている。ギルバートの会社も時代の波にのまれた結果の倒産であった。退職してからの時代の変化はデジタル化とネットの普及で早くなったと浩一は思いながら、ずっとギルバートの会社状況を新聞で追っていた。倒産後の処理が大変なことも気がかりだ。しかし国際電話をしてまで香苗に聞くことはできない。余計な心配を増やすことにもなる。浩一は思い切って渚に聞いてみた。
「香苗から連絡はあるかね」
「毎日ありますよ。そうだ!今3時だよね。ちょっとまって」
渚はスマホをエプロンポケットから取り出して、電話をかけている。
「あ、香苗。今、おとうさんが来てるのよ。話したいって言ってる」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」と言ったが、渚はスマホを浩一に手渡した。
「ちょうどロンドンは朝なのよ」
 平静を装い、学生時代の香苗に言うような調子で
「久しぶり。今そちらは何時かね」と当たり障りのないことを聞いた。
「お父さん、杖を使い出したんだってね」
 香苗も当たり障りの話題で対応する。
「ああ、ずいぶん楽に歩けるんだよ」
「お母さんやお兄ちゃんは元気なの」
「ばあさんは巾着作りに熱中して、少し首を痛めてる、浩は相変わらずだよ」
――本題を聞かなければ、電話料金が高くついてしまう。
 浩一は思い切って聞いてみた。
「ところで、ギルバート君は元気なのか」
「実は会社が潰れたの。転職先を探している。もしかしたら日本に一緒に戻るかもしれない」
「ああ、実は吉竹から聞いていた。何でもマウンテン計画といって15万人の旅行客をチャーター便でイギリスに戻すので国中が大変なんだろ」
「そう、会社が機能していないの。ギルバートの歳だと次の仕事が見つからなくて、日本のインバウンドに貢献しようと言って、いろいろ探しているけれど、仕事がないし、それと……」
「それと、何だ?」
 浩一には以前に見た渚のラインの「離婚するかもしれない」というメッセージが浮かんだ。
「とにかく、先ずは私だけで日本に帰ろうと思うの。お母さんに言っておいて、ここじゃ話しづらいことがあるから、後で家に電話にする。そちらの時間で六時くらいに待っていて。今、お父さんと話したことも、内緒にしといてよ。お母さん、そういうの、うるさいんだから。じゃあ渚に替わって」
浩一は渚にスマホを渡した。
「うん、帰ってくる日がわかったら連絡して、良太の店で飲もうよ、じゃあね」と会話を終えると渚はスマホをポケットに入れた。
 浩一は、バッグの中にいれてある定年の日に後輩からもらった名前入りのボロボロの財布を取り出して、そこから一万円札を取り出して渚に渡した。
「国際電話の料金と香苗に繋いでくれたお礼だよ」
「何言っているんですか。Line電話といって無料でどこでも電話が出来るのよ、そんなケチくさいことしたら父に怒られちゃうでしょ」
渚は店の奥に飾ってある父親の写真に顔を向けて言った。 
「Lineってのは電話もできるんだね、しかも無料かあ」
 自分が知らない世界で、コミュニケーションの方法までが変わってきている。こんなのが流行ったら電話会社はどうなるんだと、取り残されていく側に意識が向いてしまうのが浩一のクセだ。思えばギルバートの会社の破綻もネットでチケットや海外ホテルが自分で取れるようになり顧客が激減したことが原因だ。新しいものが一つ出来る時、古いものが一つ無くなっていく。
「はい、二本ね」渚は瓶ビール二本を差し出した。
「あ、今日は缶もお願いするよ」
「これの日ね」と渚は笑いながら、右手で缶ビールを飲む仕草をして黒ラベルの350cc缶を渡した。
 香苗の声が聞けたこと嬉しさもあり、久枝に秘密にしている「あれ」をやりたくなったのだ。山村歯科の無残な状態を見て落ち込んでいた気分は、香苗の声で少々持ち直してきている。浩一は三点杖で蓮乗寺に向かって歩きだした。
――香苗が帰ってくる!また一緒に飲めるかもしれない。
 「出戻りと4人で飲もうや」と言った吉竹の言葉が真実味を帯びてきている。
 難関は久枝だ。二人が以前のように言い合いになり意地を張り合うと香苗はまた出ていってしまう。久枝の心の中に香苗はどんな形で存在しているのかわからない。英国にまで嫁に出した母として、かつての久枝自身のように「結婚したら実家の敷居は跨がない」という古い考えが未だにあるのかもしれない。実際、気仙沼から横浜に嫁いだ久枝が実家に戻るのは、年末年始だけであった。久枝と母親との親子葛藤があったことは結婚当時から知っていたが、7年前の震災の津波によって、一人で住んでいた母が亡くなった時から久枝は悪夢を見るようになっている。
 故郷を置いた母親を一人で死なせた久枝の孤独感や罪悪感を感じる時、浩一は妻が愛おしくなる。昨日も久枝は夢にうなされていたが、意地の張り合いがあって優しい対応ができなかった。
 久枝と香苗には、一度決めたらやり遂げるという一徹さがあり、そこは母娘で似ていた。それ故に互いの思いが違った時、二人は強く衝突するのであった。
「お父さんに言ったことは秘密よ、後で上手にお母さんに伝えて」という言葉を、幼い頃から何度聞いたことか。
「留学の件、お母さんには秘密よ。許可がおりてからお母さんに伝えて。ギルバートのことは……」
 何でも重要な事を浩一に最初に伝え、浩一から久枝に伝言させるのであった。そういう父娘関係が浩一は嬉しかったが、久枝にしてみると気に入らないのかもしれない。
――夕方かかってくる香苗の電話には「久しぶり」を装わないと。 

 浩一が蓮勝寺が好きな理由は変わらぬ形が、そこにあるからだ。境内への階段をゆっくり上がりベンチに座る。腕時計を見ると4時半だ。ちょうどよい時間だなと周囲を確認する。この時間帯はあまり人が境内にやって来ない。寺の花水木の花はすっかり散っていたが、爽やかな春風が吹いていた。デイバッグを降ろして缶ビールを取り出してプルトップを開ける。こうして二週間に一回くらい「不良老人」になるのが、老いた浩一の楽しみのひとつだ。80歳近い老人が1人で境内のベンチに座り不謹慎にビールを飲んでいる姿を久枝が見たら、真っ赤な顔で「みっともない、離婚よ!」と言うのに決まっている。
――おお、くわばら、くわばら……。
 親に隠れてタバコを吸う高校生のような気分で、暮れかけてきた空を見あげて缶ビールを味わう。
「ああ美味い、今日の風は気持ちがいいなあ」
思わず独り言が出る。香苗を思い出しながら、缶ビールをゴクリと飲む。

 香苗が国際社会に関心が向いたのは1本の映画だ。浩一が「ホテル・ルワンダ」というDVDを借りてくると、中学一年になった香苗は横に座って父親につきあって見始めた。久枝と宏はキッチンで談笑していて二人が観ている映画には全く関心がない様子だ。宏が中学生になった頃から、杉本家には母と息子、父と娘という連合ができ始めていた。
 ホテル・ルワンダはツチ族とフツ族の内戦の話しである。1994年にルワンダで勃発した虐殺で、フツ族過激派がツチ族の120万人以上を虐殺したのだ。その状況でフツ族のポール・ルセサバギナがツチ族1200名以上を自分のホテルに匿ったという、実話を基にした映画であった。
 映画が終わると、香苗は大声で泣いていた。
「なんで、こんなことするの。どうして、こんな世界があるの……」
「香苗、世界は広いんだよ。あちこちでいろんな事が起きている。世界を考えるような大人になってほしいなあ」
 香苗は留学すると決意して、英検一級をとり、大学を卒業した後にロンドン大学に留学したのである。

 今日の出来事を手帳に書き留めておこうとバッグの中を探す。浩一は手帳に、その日にあったこと、感じたこと、思い出したことを書くのが定年後の習慣になっていた。先の人生が短くなると一日が終わることの重さが身に染みるからだ。
 しかしバッグの中を覗いて「はっ」と思った。財布がないのである。
 「悪いことの後には良いことが、良いことの後には悪いことが起こる」とは人生で学んだ浩一の教訓だが、実際に悪いことが起こると動揺は激しかった。動悸がして冷や汗が出てくる。マイナンバーカードや保険証などが入った思い出の大切な財布がない、どこにもない。香苗と話した高揚感で落としたことに気づかなかったのだ。
――途中で落としたんだ、早く戻らないと、どうしたものか。
 物忘れ、老い、失われて行く世界、老夫婦だけの生活という現実が、激しい孤独感と不安感を連れて浩一の心に津波のようにやってきた。
残った缶ビールを捨て、店に戻ろうと準備をしていた時、若い男の声が聞こえた。翔平が走ってきて、浩一の目の前で財布を出した。
「おじさん!軽トラの横に財布が落ちてたんです。ハアハア、母さんから、蓮勝寺に居るはずだと聞いて届けにきました。ハアハア、母さんがこれ持っていけって、せっかくだから付き合ってきなさいって」
 翔平は財布を浩一に渡すと、手に下げていたビニール袋からビールと柿の種を取り出した。
 翔太は浩一の隣に座り、缶を開けると泡が一気に吹き出す。全速力で走ってきたせいだ。そんな事一つでも浩一は老いを実感する。もう自分はビールが吹き出さない程度のスピードでしか歩けない。
 殆ど空になった缶ビールで2人は乾杯した。フレンチブルドッグの散歩で時々会う品の良い婦人が頭をさげた。浩一と一緒に翔平も頭を下げる。少し風が冷たくなってきて空は暗くなり始めている。
「香苗おばさん、戻ってくるって本当ですか」
「わからんよ。そういえば香苗は翔平君の家庭教師をしてたね」
「俺、勉強出来なかったからね」
「それより、もうすぐ結婚するんだろ。お母さんもそうだけど、小林家は結婚が早いねえ」
「結婚して祖母と一緒に住む予定なんです。今の酒屋は壊して、ビルに建て替えようかと思ってるんです。一階を酒屋かコンビニにして、二階をワインBarにしようかなとも思っています」
「お母さんは知ってるのかね」
「母にはワインBarのことはまだ言ってません。実は、祖母のアイデアなんですよ。お爺ちゃんの遺言で俺に店長をやらせて店を大きくしたいというのです」
「うん、まあ、いいんじゃないか」
――町から思い出がまた一つ消えるのか。
 先代店主の思い出話やビール達人の歯医者さんの話などで30分ほど会話して懐かしい気分に浸った。「小林酒店という名前は残してほしい」と思ったが、翔平に言うことはできなかった。
「空き缶は処分しておきます」と言うと翔平は店に戻っていった。

 家に戻ると、玄関には久枝の靴があった。
 リビングには居ないので二階で寝ているのに違いない。粗大ゴミ発言から久枝との関係は最悪になってしまった。出かける前の「虫の冗談」も言い過ぎだったと思う。
 老いた者同士で穏やかにやっていこうと思っても、些細なことで衝突してしまう。老夫婦のパターンを変えるほうが違和感もあるし、もう自分にはできないと浩一は思う。浩一も久枝も、嫁、息子、娘には本音や小言は言えない。しかし配偶者には言いたいことを言ってしまう。
 そんなことを考えながら冷蔵庫に瓶ビールをしまっていると、固定電話が鳴った。
「香苗だ」
浩一は逸る気持ちで受話器をとった。
   

 

この記事へのコメント

  • カラーピーマン

    第8話拝読いたしました。
    夫が妻に言いたい事を言ってしまうのは、こういう男性の心理があるのですね、勉強になりました。それと、古いものが壊されていく何とも言えない気持ち、これは私も最近感じるようになりました。浩一の気持ちに共感すると共に、若い翔平の行動力が眩しくも感じます。
    これからも楽しみにしています。ありがとうございました。
    2021年06月29日 11:44
  • かがわとわ

    カラーピーマン様。
    いつもありがとうございます。(^▽^)/
    しばらくぶりに通った場所の建物が、新しい建物と入れ替わっていると、
    「あれ? ここに何あったっけ?」
    と思うのは、私だけでしょうか……。
    2021年06月30日 21:14
  • カラーピーマン

    かがわ様
    いいえ、壊される前に何があったのか? 想い出せないのは私も同じです。ご安心ください。壊されてすぐなら、Googleマップで調べられるかも^^;
    2021年07月01日 21:22