第9話 渚と久枝 黒崎つぐみ

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 次の日の朝9時過ぎにはアマゾンから手押し車が届いた。レンガ色のチェック柄だった。
「あら、いいじゃない」と久枝は上機嫌で押してみる。10時過ぎには、渚から「今日で良ければ、駅から100mほど歩いたところにある野菜レストラン『さいとう』の席が2つ空いたけどどうですか」と電話があった。早速手押し車の試運転だ。
「これがストッパーだから、止める時や座る時は必ずかけろよ。気を付けるんだぞ」と浩一に何度も念を押されて、久枝は久しぶりにおしゃれをして家を出た。
駅前通りは車が多い。菊名神社の手前と聞いていたので途中まで裏道を行った。体の重心がぶれても、掴まる所があるのは心強い。軽快に歩を進め、時間より少し前にレストラン前の駐車場に着いた。遠くから来たナンバーの車が止まっている。南仏風の洒落た建物が奥まったところに建っていた。「こんな所に昔からレストランがあったかしら」久枝は心弾んだ。
入り口近くの駐車場の空きスペースに手押し車を停め、ちょこんと座って渚を待った。
5分ほど店の外で待っていると、自転車で渚が現れた。
「中で待ってて下さればいいのに……」と言いながら、馴れた様子で店内に入っていく。聞くと、この店にもお酒を卸しているらしく、予約の取りにくい店として有名らしい。たまたまお酒の注文があった時に「ランチ2名とか、空いていませんよね?」と聞くと、「大丈夫ですよ」と席を作ってくれたという。遠くから来るお客さんが多いので、地元の人にバッタリ会うことも少ない。込み入った話をするには穴場かもしれないと、渚の配慮だった。野菜レストランというのも久枝は嬉しかった。地場産の野菜を沢山、いろいろな調理法で頂ける。レトルトの食事に飽き飽きしていた久枝にとって、何よりだった。ランチメニューも簡単なコースやセットになっている。周りを見ると30代、40代の若い主婦がワインなど飲みながら静かに話している。
「なんか、優雅な所なのね」そう言いながら背伸びしてしまうのは久枝の悪い癖だ。娘と同い年の渚を前にして、人生経験から得た知恵を伝授したくなった。
「翔平君、お店継ぐんだって? いいこと教えてあげる。個人商店の税金対策。お友達から聞いたんだけど。あのね、翔平君をあなたのお母さん、つまりゆう子さんの養子にすればいいのよ。戸籍上姉弟ってことになるわね。相続の時に翔平君にあなたと同じだけの相続分が入ると、翔平君もお店経営がしやすくなるでしょ?ゆう子さんも孫に継がせたいと思っているようだし」
料理を待つ間、得意げに話す久枝に
「こないだ、香苗からも同じこと、言われたんですよ。大丈夫です。うち有限会社にしますから。親子って似るんですね」とケラケラ笑った。渚はいきなり本題に入った。ランチの時間は1時間半。ゆっくりはしていられない。
「香苗は何も言わないんですか?」
「そうなの。私には素直じゃないのよね。どうしてかしら? いつからこうなっちゃったのか……」
「おばさん、覚えてないんですか? 中一の時のこと」
「何のこと?」
ポカンと虚ろな目をしている久枝に、話すべきか逡巡しながら渚は口を開いた。
「私たちが中学1年の最後の日、香苗の帰りが遅くなって、みんなが大騒ぎして探したことがあったこと、覚えてらっしゃいます?」
「ああ、良太君と夜になって帰って来た……」
「あの夜、香苗は夜中に目が覚めて階下に降りて行ったとき、おばさんとおじさんの会話を聞いてしまったらしいんです」
渚は声に出すのを躊躇ったのか、バックからボールペンを取り出し、テーブルの紙ナプキンに何かを書いて久枝に渡した。紙ナプキンは筆圧で少し破れ読みにくかったが、
「チ・ツ・セ・ン・ジョウ?」
声に出した久枝に、渚は慌てて「シッ!」と人差し指を自分の唇に当てた。
隣のテーブルの客と目が合った。渚は囁くような小声で続けた。
「私も香苗も初めて聞く言葉だったんです。次の日、香苗から『チツセンジョウってなあに?』と聞かれて二人で調べました。わからなかったので保健室の先生に聞きに行って、やっとわかりました。乱暴された女性に施されるというあれです。おばさんが『産婦人科でやってもらった方がいい』って言っていたこと。おじさんは『良太君を信用できないのか? それは香苗も信用できないってことなんだぞ』とおばさんに対して怒っていて……」
久枝は自分がそんなことを言ったことは記憶にない。しかし香苗が立ち聞きして渚に話したのなら、二人の記憶は確かだろう。背筋がこわばり、フォークを置いた。実際、後にも先にも久枝は娘を産婦人科に連れて行ったことがない。浩一に諭されたこともあるのだろうが、香苗自身、いつもと変わった様子もなかったので、次第にその日の記憶は久枝の頭から薄れてしまったのだろう。
「香苗はずっとお兄ちゃんの浩さんの受験勉強の付き合いで、テレビが観られないとこぼしていたんです。観させてもらえるのは週に一時間、『なるほど・ザ・ワールド』くらいだって。世界のいろいろな国には興味があったけど『進め、電波少年!』とかの話を良太から聞いて、良太の環境と自分の環境がすごく違っていると思ったらしいですよ。お兄ちゃんのお祝いを買いに良太に横浜までついてきてもらい、いろいろな話をしているうちに、元町まで来てしまって… ちょうどチャーミングセールをやっていて、そこで予算ギリギリでプレゼントが買えたって。元町から山手に抜ける公園で冒険している気分になって、山手に出たら洋館が建っていて…… ただで入れたから中に入ったらまるで外国に来たようだったと言っていました。とても楽しかったって。お腹が空いて、お金を使ってしまったので、中華街で良太に肉まんを奢ってもらったって」
久枝はその時の話を香苗から詳しく聴いたことがなかった。無言で兄浩に入学祝いのプレゼントを渡していた。キタムラ本店の包装紙を見て、元町まで行ったのか、と思ったくらいだった。それからも香苗との会話はなく、久枝の関心は浩の高校生活に移り、香苗は父親とだけ話すようになった。母娘の距離を縮めようとはしなかった当時の自分に初めて気づかされた。
香苗は香苗で「大人はそんな目で自分たちを見ているんだ」と気づくと、良太とも話さなくなってしまった。高校は地元を離れ私立の女子高を受験した。友達付き合いまであれこれと口出そうとする久枝に、前よりも一層反発するようになった。
「あら、前菜がまだ残っているからメインのお皿が出せないのかな?」
渚に言われ、慌てて食べた料理は味がしなかった。
「香苗、日本に帰って来たいみたいです」
「そうなのね。これからも何かわかったら教えてもらえるかしら……」
「おじさんにはちょくちょくお会いできるんで、お話ししておきます」
「そうなの? 」
ご馳走するという久枝の言葉に、甘えられないと
「割り勘で!」
渚は2000円を置いて、仕事に戻って行った。

久枝は手押し車を押して東急へ寄った。入り口のドアに写った姿をふと見ると、そこには年老いた背筋の丸い自分がこちらを見ていた。
家に帰ると「どうだ、美味かったか?」いきなり浩一が聴いてきた。久枝は無言で買い物した荷物を玄関先の手押し車から冷蔵庫に運んでいる。無言の人にはそれ以上話しかけない浩一だ。「荷物運ぶの手伝って」と言えない久枝との間に会話はない。久枝は浩一が放りっぱなしの手押し車を下駄箱の横に立てかけるのをぼんやり見ていた。


この記事へのコメント

  • カラーピーマン

    第9話、拝読いたしました。
    今回は香苗が母の久枝の言葉に傷つき、そこから少しずつ母娘関係に溝が出来たことが浮き彫りになって、内容は違ってもこういう事はあるあると思いました。大体は親は忘れてて、子供はいつまでも忘れられないものですよね。渚のような存在がいてくれて、浩一も久枝も香苗も助かると思います。
    次回も楽しみにしています。ありがとうございました。
    2021年07月08日 23:00
  • 黒崎つぐみ

    カラーピーマン様
    うちでもだいぶ経ってから「あの時、ショックだった」と言われたことがありますが、私は忘れているんですよね。10年くらい経ってから突然言われて、傷つけたんだなあ…と思いました。この小説ほどキツイ言葉ではありませんが、小説では印象付けるために「キツイ」表現を使ってしまいました。
    2021年07月09日 09:34
  • かがわとわ

    カラーピーマンさん、ありがとうごさいます。
    いろいろと、親子って、面倒ですのぅ……。
    ( ゚Д゚)


    2021年07月09日 14:08