
「そんな遠いところまで車で大丈夫なの?」
エプロン姿の母の絵里子が一泊分の着替えとタブレットをいれたデイパックを背負った修に声をかける。
「大丈夫だよ親父の車は乗り慣れているから」
母親は夫の宏が休日だけ使っている車のキーを息子の目の前にぶら下げて、飼い犬に「待て」をさせるような調子で「安全運転で行きますと、頭を下げて私に誓いなさい!」と言った。絵里子より10センチ背が高い修が「お母さん、僕は安全運転を誓います」と仰々しく頭を下げると、絵里子は両手で修の手を包み込むようにしてキーを渡した。
「車を傷つけたらお父さん怒るわよ~、本当に安全運転で行きなさいね!」という母の声を背中で聞いて、車のおいてあるガレージに向かった。
ガレージには20年前に父が買ったレガシィツーリングワゴンが置かれている。修も母も車検の度に「新しい車に買い換えようよ」と何度も言ったが、父に買い換えの話をすると「これ以上の車はないんだ!これは俺の思い出だ!」と普段見ないような剣幕で猛反対した。修はどのくらいの価値があるのかと思い、父の車の値段をこっそり中古車サイトで調べたことがあるが、二年前にすでに80万円で売られていた。それを毎回20万円近く出して車検に通す父の気持ちの拠り所は修にはわからなかった。
修が物心ついた頃から、毎年夏と冬の二回温泉旅行に家族と菊名の祖父母と一緒に行くことが慣例であった。伊豆、箱根、栃木、群馬と毎回違う温泉に行けることが修は楽しみにしていた。しかし修が小学6年の時、菊名の家で父と祖父が大きな声で言い合いをしているのを聞いた後から、祖父と父は全く交流を絶ってしまった。祖父母を加えた温泉旅行は二度と計画されることはなかった。あの時に、何があったのか修にはわからない。祖父と父親だけではない。家族の中での父親の口数は減り、修が父と話すことも殆どなくなった。母と修が自分の家と祖父母の家の繋ぎ役になって、菊名と家を行ったりきたりしている。しかし修が運転免許を取ったことを父が知ると、珍しく自分から声をかけてきて「修、あいつに乗ってあげてくれよ、あいつもきっと喜ぶから」と車を使うように言ってきた。修は父の車を借りて湘南道路で小田原までドライブしたり、一人で母方の祖父母が住む静岡まで運転して行ったりした。
7月の週末に「フィギュア愛」同好会の研修旅行が計画された。同窓会でも大学から活動費が年間5万円だけ支給される。普段は新人歓迎会や追い出しコンパに使うのだが、今年に限りフィギャア愛には入会者がいなかった。そこで、研修旅行を計画することになったのだ。田村先輩の故郷に近い伊香保温泉に研修先は決まった。オモチャと人形、自動車博物館が近くにあるからだ。研修申請書には「オモチャと人形、自動車博物館におけるフィギュア研究」と書いて、交渉上手な由美子が学生会に持って行くと、あっさり許可が出て3万円の資金調達ができた。
研修旅行には大西由美子を含む女性四人、修と田村先輩の男性二人が参加することになった。しかし、女性一人がバイトの都合で来られなくなり、前日に、もう一人は熱がでて、結局は修と由美子、田村先輩と先輩の彼女である麻里さんの四人で行くことになった。
修と田村先輩が車を出すことになり、二組のカップルで伊香保温泉に現地集合し、一泊した後、翌日は博物館を見学して帰る計画にした。
午後3時、修は東戸塚駅前の車寄せにツーリングワゴンを止めて由美子を待っていた。修は、由美子が自宅に来た時の帰りに話した男性恐怖のことを心配し、旅行が決まった直後にLINEで「電車で行きましょうか?」と連絡すると「なんで?やだよ、そんなの」と答えが返ってきた。
バックを持った由美子がやってきた。袖コンシャスで胸元の広い白シャツに前ボタンのデニムスカート姿である。ニコニコしながら「かっこいい車」と助手席のドアを開けて、自分の家の車のように勝手に乗りこんできた。由美子が乗るとシトラスの匂いが車内に拡散した。女性を乗せて長距離ドライブすることは始めてだったが、由美子と近づけると思うと修の胸はときめいた。
父の車にはカーナビが着いていなかったので、修は伊香保までのルートをスマホに入れて音声案内するようにした。由美子がシートベルトをすると、ベルトが胸の間を通って服が押しつけられ、今まで気づかなかった由美子の豊満な乳房の形が現れた。
由美子は、あの日に語っていた男性恐怖は何処吹く風といった様子で、テンションが高くなり、巾着の売り上げが伸びているとか、ゆるキャンの志摩りんがヤフー順位で3位になったとか、部長が何もしないので副部長の自分が大変だとか、来年は自分が部長やるから、修が副部長やれだのと、一方的に話し続けた。
車は練馬インターから関越自動車道に入った。
由美子の話に付き合うのが面倒くさくなってきた修は、「大西先輩、後ろに親父のCDケースがありますから、何か選んでください」と言った。後部座席に置いてあるアタッシュケース型のCDケースには200枚くらいの音楽CDが入っている。由美子はアタッシュケースを膝の上に置いて、一枚一枚取り出し、中島みゆき、松任谷由実、エリック・サティと読み上げて確認している。突然宝くじに当たったような勢いの声で「わお、ストーンズがあった」と言った。
「ストーンって何ですか」
「え、知らないの!ローリング・ストーンズよ。母がファンで毎日YouTube見てるのよ、私もファンなの」
CDを挿入するとストーンズの曲が流れてきた。激しいギターのリフが始まった。
Start me up ♫、Start me up♫♫
「なにこれ!凄い良い音じゃん」
「親父は音に凄く凝るんですよ」
由美子はうるさいくらいに音量にカーオーディオのボリュームを上げた。一人で曲に乗り始めて、両手でリズムをとっている。
Start me up ♫、Start me up♫♫
「△%△*」
何か由美子が話しかけてきたが、ギターの音が大きすぎて聞こえない。
ボリュームを少し下げて「何ですか?」と聞き返すと、「修のお父さんって何してるの、趣味がいいよね」と由美子が質問してきた。
「インターネット会社、楽天の関連会社で音楽を担当してるんです」
「この車は父のお気に入り。父の運転で、小さい頃はお爺ちゃんやお婆ちゃんも連れて、毎年、温泉行ってたんですよ。この高速も走ったことがある」
タイミング悪くスローな悲しい雰囲気の曲になった。
Angie Angie when will those clouds all disappear?
Angie, Angie where will it lead us from her
「私にはそういう時代はなかったなあ……」
修は由美子が母子家庭だったことを思い出して話題を変えた。
「ローリングストーンズってどこのバンドですか」
「イギリス。ビートルズと同じくらい人気があったのよ。でも、今も現役なの。ボーカルは70歳過ぎている」
「僕のお爺ちゃんと同じくらいの歳でロックしてるんだ、すごいなあ」
「でもね、母が一番好きなのは、ミック・ジャガーやキース・リチャーズじゃないの、ドラマーのチャーリー・ワッツ」
「よくわからない」
「派手なパフォーマンスやるミックやキースの後ろで、淡々とリズムを刻むの、実はバンドを支えている人」
「まったくイメージわかないなあ」
「あ!」
「何?」
「今わかった。修のお爺ちゃんって、チャーリー・ワッツに似ている」
ストーンズを始めて聞いた修にはチャーリー・ワッツがどういう顔をしているかもわからない。ただ、フィギュア愛とは全く違う世界を由美子が持っていることに驚いていた。
車は東松山インターを通り過ぎた。
「修とお爺ちゃんは雰囲気が似ているよね、二人とも毒気ないじゃない」
「お爺ちゃんってフィギュアじゃなかったの、毒気なんかないほうがいいじゃないですか」
「そんなことないの!薬男と毒男って知ってる? 看護師やってる母が言ってた。安全で安心な薬男と付き合いたいのに、遊び人やギャンブルばかりする毒みたいな男と付き合う看護師が結構いるんだって。薬男ってつまらないから毒気に惹かれちゃうらしい。そういう子に限って幼い頃に父親から酷いことされたりしているらしい、あなたも毒男に気をつけなさいって母から言われたわ、ハハハ」
「そんな話しが出来る僕は、つまらない薬男なんですね」
「修はねえ……毒でも薬でもないね。あ!見て、見て、山が沢山見えてきた」
絵里子がスマホの地図で山の名前を確認し始めた。
「今、あれが赤城山、あれが榛名山っていうんだ」
I can’t get no satisfaction ♬ I can’t get no satisfaction ♬♬
「あ、サティスファクション、これ大好き」
由美子はまたボリュームを上げた。
I can’t get no satisfaction oh no no no hey hey hey ♬
車は高崎インターチェンジを通り過ぎて、渋川・伊香保インターまで9キロと書いてある地点になった。右手に赤城山、左手に榛名山を仰ぎながら修が運転するツーリングワゴンは北に向かって走る。
渋川・伊香保インターを降りて、20分走ると伊香保の温泉街があった。宿泊予定のホテルは石段の上の方にある。駐車場に車をいれて自動ドアの玄関に入ると、着物を着た仲居がフロントは右手ですと案内する。フロントの脇には土産屋があり、ぐんまちゃんというキャラクター商品が沢山売っていた。
「修、部員への土産はぐんまちゃんフィギュアだね」
「そうしましょう!」
フロントに立つ中年男性に「青嶺学院で予約してあるものです」と告げると「フィギュア愛さんですね。先に二人が到着しています、男性が505号室,女性が502号室です」と言った。
505号室のドアの前には「青嵐学院、同窓会フィギュア愛。田村様、杉本様」と書いた紙が貼ってある。部屋を叩くと田村先輩がドアを開けた。先輩はすでに浴衣に着替えていて、座敷のテーブルの上にはビール瓶とグラスがあった。10畳くらいの部屋の広縁には小さいテーブルと二脚の籐椅子があり、大きな窓の向こうには深緑の山々が見えていた。デイパックを広縁の隅に置き、籐椅子に座ると、座椅子に座った田村先輩が話しかけてきた。
「杉本さあ、来た早々の相談だけどな、部屋を麻里と変わってくれないか」
「え?それはだめですよ。大西先輩と僕が一緒の部屋なってしまうし、そんなの大西先輩が許しませんよ」
「杉本と大西も付き合っているんじゃないの?」
「付き合っていませんよ。最近、少し仲良くなっただけです」
「それじゃあ、更に仲良くなる機会で良いじゃないか」
「絶対、駄目ですよ、大西先輩が怒ります」
その時、トントンとドア叩く音がした。修が立ってドアを開けると由美子と浴衣を着た麻里さんが立っている。
「修、麻里さんと部屋の交代だって」
「え、先輩は僕でいんですか」
「修が何かしたら絞め殺すから大丈夫」
由美子は黒目勝ちの大きな瞳の顔を修に向けた。
由美子の部屋は505号と同じ作りだったが、こちらの部屋のが景色は良かった。畳の上の座布団に由美子は座っている。チラッと目をやると膝から下のスラッとした素足が見えた。
「とりあえず、私はお風呂に入っくる。修は待ってるの?」
「じゃあ、僕もいきます」
浴衣と帯とタオル一式を持って、最上階にある温泉に行った。途中の廊下には与謝野晶子の歌を紹介するコーナーがあったりして、古くからある温泉宿のようであった。
男湯の入り口にスリッパは一つもなく、温泉は修一人で独占だ。浴槽は石で作ってあり、湯は黄金の湯で茶色だ。壁際には大きな目玉のカエルの石像があり、その口から湯が出ている。展望風呂というだけあって、深緑の山々、その向こうには薄暗くなってきている空が見えた。
外に露天風呂があった。露天は女子風呂と薄い板で仕切られているだけである。足を伸ばし夕暮れの風を感じていると。隣の露天に女性が話しながら入ってきた。一人の声は由美子だった。
男湯の音が聞こえないように身体を動かさないようにして聞き耳を立てる。
ザブンと湯に入る音が聞こえる。もう一度、ザブンと聞こえた。由美子が隣の露天に裸でいる。
「そう、青嶺学院なのね、私の娘は英文科を出て県庁に勤めてるの」
「私も英文科なんですよ」
「伊香保温泉で彼氏とデート?」
「違いますよ、サークルの研修で来てるだけです」
修の胸がドキドキしてきた。シトラスの匂い、豊満な胸、すらりと伸びた足……由美子の裸体が浮かんできた。修の中に男性性が立ち上がってくる。股間に突き上げるような衝動が走り、避けられない肉体的反応が起きてきた。
「素敵な景色よねえ」
「そうですねえ」
「若い人っていいわねえ、あなた、本当に綺麗で張りのある肌、スタイルもいいわよ。あ、私は連れ合いが待っているので先に出ますね、ごゆっくり」
中年女性の声に続いて湯船からあがる音が聞こえた。しばらくすると由美子が湯からあがる音が聞こえた。
由美子の裸体が壁の向こう側にあると思うと、修の衝動は抑えきれなくなった。修は誰もいない洗い場にもどって椅子に座り。硬直したペニスを握った。出したい気持ちが、もう抑えられない。風呂に誰も入ってこないことを願い、裸の由美子を抱く自分を想像しながら修は最後まで達した。
風呂から上がり、誰もいない脱衣室のマッサージ椅子に座っていると、運転の疲れが出たのか、由美子の刺激が強かったのか、思わず居眠りしてしまった。時計を見ると30分も経っている。
慌てて、浴衣に着替えて部屋に戻った。
「遅いよ修、何してたのよ!」
「疲れて居眠りしちゃったんです」
浴衣姿の由美子が、伊香保マップを見ながら「ねえ、夕食、どこで食べようか?」と言う。「先輩達と一緒に4人で食べるんじゃないんですか」「先輩達、二人で榛名湖まで行って食べるって?もう出かけちゃったわよ、どうする。石段街に行って何か食べない」
由美子と修は下駄を履いて、石段に向かった。平日なので人はそれほど多くはなかった。バスターミナル付近の入り口から伊香保神社のある頂上まで365段の石段が続いている。すっかり暗くなっていたが石段の脇には、レトロな遊技場、饅頭屋、土産屋、駄菓子屋の明かりがついていた。
ホテルは階段の上の方にあったので、二人はゆっくりと石段を歩いて降りた。前からカップルが上ってくる。背の高い男性は以前テレビで見たことのある端正な顔立ち、女性はブロンド髪の外国人女性だ。由美子が「こんにちは」と挨拶すると、二人は笑顔で会釈だけして、すれ違って行った。
階段の途中で由美子は立ち止まった。
「この通りに入ったところに、いかほ食堂っていう居酒屋があるのよ。さっきグルナビで見たら評判よかったし、家庭料理が食べれる居酒屋だって」
「そこに行きましょう」と修は言った。
いかほ食堂という店の前には「酒」という赤い提灯が下がっている。紫色ののれんをくぐり、引き戸を開けると、60代くらいの顔立ちの良い女性が一人でカウンターの向こうに立っていた。客は居なかった。靴を脱いであがる掘りごたつ席が4つある。カウンターの上にはぐんまちゃんが置いてあり、壁には居酒屋でよく見るハイボールを持った女優のポスターと伊香保祭のポスターが貼られている。
女将は二人に「あら、いらっしゃい、カウンターに座ってね」と言った。カウンターの椅子は近くて、隣に座る浴衣姿の由美子の身体が触れる。由美子の身体から湯上がりの匂いがしてくる。
「どうしようかなあ」と言って、メニューを修と一緒に見るために由美子が身体を修に近づけた。浴衣の隙間から由美子の胸の白い肌の谷間が見えている。由美子はメニューを裏表見て「決めた!ニラ玉と檸檬ハイにするわ」
それを聞いた修が「え、飲むの?」と言うと「当たり前じゃない、ここ居酒屋でしょ。飲まなくてどうするのよ。あれ、君まだ未成年?」「5月に二十歳になりました、でも入学した時から飲んじゃってますけどね」
修は、大学に入ってから祖父とビールは飲んだことがあった。祖母がいると怒られたので、祖父と二人になった時だけだ。父とは一度も酒を飲んだことはなかった。
「それじゃあ、僕にはナポリタンとビールをください」
「じゃあ、最後に餃子、ここの餃子が美味しいって書いてあったし」
「そう、全部、私の手作り」
女将は二人を見てニコニコしながら檸檬ハイと瓶ビールにグラスをカウンターの上に置いた。
「乾杯」と二人はグラスを合わせる。小顔の由美子は形の良い唇をグラスにあてて檸檬ハイを飲んだ。
「一人でやっていて、順番に作るから待っていてね。それまで、これを食べていて」と言って、大盛りのポテトサラダを出した。
由美子はお通しはいらないのになと思ったが、由美子の怪訝な表情を読み取った女将は「お嬢さん、それは、サービスだから大丈夫よ」と言った。
ポテトサラダに箸をつけて由美子は一口食べた。
「美味しい!何か味が違う」
修も口に入れる。
「本当だ!美味しい」
「何が入っているんですか」
「愛情」
女将は笑った。
女将は二人を見ながらニコニコして「お二人とも仲が良いのねえ、学生さん?伊香保は初めてかしら」と言って最初にニラ玉を出した。
「ええ、始めてです」と由美子は答える。
しばらく、由美子と修は部活の運営やお気に入りのフィギュアについて話していた。
餃子が最後に出てきた。
女将は懐かしい人でも見るような優しい眼差しで、さっきからずっと二人を眺めている。
「あなた達の時代は、いろんなところに行って、いろんな人に出会って、そしていろいろ経験して、そして大人になっていくのね。ところで、あなたたちどこから来たの」
「横浜です」と由美子と修は同時に言った。
女将の表情が少し固くなった。そして、少し間を置いて
「私も横浜にいたのよ」と言った。
「そうなんですか」と、また修と由美子の声が重なる。
「もう20年も前……、そうか、少し待っていて」
そういうと、女将は奥に入っていった。
「別れた私の子ども」といって写真を二人の前に置いた。由美子が「見ていいですか」と言って手に取ると、古い写真には小学生くらいの男の子と女の子が写っていて、裏には「夜空と星也」と書いてあった。
「こんなこと、めったに人に話さないんだけれど、横浜から来たあなた達を見ていたら話したくなってしまったわ。のれんを下げてくるわね。
女将はのれんを中にいれ、提灯の明かりを消した。
「一本ビールおごるからおばさんの話しを少し聞いてくれる」と言って、
女将は瓶ビールとグラス三つをカウンターに置いた。女将は自分のグラスに手酌でビールを注ぎ、一気に飲むと語り始めた。
「私には酒飲んで暴れる父親がいたの。幼い頃から殴られたり、モノをなげられたり、中2の時には母が男作って出ていってしまった。その後は私が食事を作った。父は酒を飲まなければ優しかったからね。でも私は中学を出た後に家を出たのよ。父が追い出したの、っていうか父なりの考えもあったんだと思う。俺と一緒にいたんじゃ駄目になると酔う度に言ってた。その後は、いろんなところでバイトして、横浜の風俗でも働いたわ。
17歳の時に10歳年上の売れない画家と出会ったの。そしたら18歳で双子を妊娠した。彼の親から反対されたけど私は産んだ。新しい家族を作りたかったからね。両親がそろっている暖かい友達の家族がうらやましかったしね。結婚は出来なかったけど彼とは5年間くらい一緒に生活したかな。私の肖像画も描いてくれた。あの5年間だけは幸せだった。でも彼、自殺しちゃった……。
その後、私は彼の残した二人の子のために、昼間はスーパーで仕事、家に帰って夜はキャバクラに勤めて生活したわ。
星也はしっかりしてたけど、夜空はちょっと知恵遅れみたいなところがあった。星也は私がいない時でも食事を作り、妹の面倒を見てくれたのよ。でも、やっぱり私だって女一人じゃ寂しくてね、少し羽振りが良い男と付き合い出したの。あの時……、子どもは、まだ中学生だった。星也と夜空で二人でやっていけると思い、子ども達が18歳になった誕生日にケーキを置いて私は家を出た。ちょうど親離れと子離れの年代だから、気持ちが男に向いたのね。でも、今から考えるとひどい母親。もう二度と子どもには会えないし、会ってはいけないと自分に誓って家を出た。今でも二人は横浜にいるのかとか、知らない街に住んでるのかとか、そんな事を今でも考えている……」
「おばさん、かわいそう」と言って、由美子は丹前の袖で涙を拭いている。
「おばさんは、どうして、この店開いたんですか」
「つきあってた男の故郷が渋川だったの。でも結婚は出来なかった。相手には妻子がいたからね。この店を開く2年前に彼は亡くなった。でも彼は、私の口座にずいぶんとお金を残してくれていた。そして伊香保でこの店を開いたわけ。うちのメニュー、家庭で食べるようなものばかりでしょ。何しろ中学時代から酒のつまみばかり作ってたから、味は評判いいのよ。今は素泊まり客も増えたし、旅館の夕食よりも、こういう味が好きな人が結構いて、なんとか生活できてるの、それと、あなた方みたいな若い人に会えるしね」
「苦労したんですね……」と由美子は涙声になっている。
「私にも父が居なかったんです、でも私は恵まれていると思う……」
由美子の涙が止まらなくなっている。
「ほら、お嬢さん、これで涙を拭いて」
女将はタオルを差し出し修の方を見て言った。
「ほら、隣の男子、こういうときは肩を抱いてあげなきゃ」
「でも……」
少し躊躇しながら由美子の肩を抱くと、由美子は修の胸に顔を埋めて子どものように泣き続けた。
「さあ、10時になったわ。また伊香保に来るようなことがあったら寄ってくださいね」
「ええ、必ず来ます」
修は由美子の肩を抱いて店の外に出た。そして夜空を見上げた。
そこには、都会では見ることの出来ない沢山の星々が輝いていた。
この記事へのコメント
カラーピーマン
星也と夜空のお母さんがここで登場するとは思いもよりませんでした。思わず中島みゆきの『糸』が頭の中に流れました。ラストも最高ですね。
光景も目に浮かぶようでした。
>壁際には大きな目玉のカエルの石像があり、その口から湯が出ている。
このカエルどこかで見たような? 気がするほどリアルでした。
面白かったです。ありがとうございました。
かがわとわ
いつもありがとうございます。
>このカエルどこかで見たような? 気がするほどリアルでした。
あの、カエルですね。ふふふふふ。
(´艸`*)