登場人物
杉本浩一、久枝
宏 杉本家の長男
絵里子 宏の妻
修 宏の長男
由美子 修と同じ大学の学生
「修、まだ寝ているの。何処か具合が悪いの? 如何したの。お父さん伊香保プリン食べて出かけたけど。開けますよ」絵里子は修の部屋のドアの前で声を掛けた。そっとドアを押し開ける。部屋の中が暗い。ドアが何かに引っかかったように重い。部屋の中に光がない。ブラインドを開けなくては、と修の部屋に足を踏み入れた途端に絵里子は何かに躓いた。
「痛っ、何? あああ・・・・・・いやっだぁ。何をしているのよ。修! 修・・・ちゃん・・・ーン」
「お母さん・・・・・・。ブラインドを開けないで。お父さんは出かけたの。今日は何時に帰るかなぁ。すごい力があるんだね。ドアを蹴飛ばしたでしょ。お母さんは・・・・・・むにゃむにゃ、ンーハー、フーン、ブツブツ、カサカサ」まだ、ベッドの中にいたのだろう。ゆつくり起き上がる気配がする。だが絵里子は気が付いた。なんか変だ。声が小さいだけでなく言いながら怯えている。神経はあちこちに尖っているようで、張りつめている気配もする。自分の声に落ち着く先を探している。
「修、何をしているのよ。あー膝が痛い。何ヨ、これは! 」転がっていた野球のバットに足を乗せたために絵里子は片方の足が前に出て、もう片方の足が膝から折りたたまれたまま床に尻もちをついた。おまけに尻もちをつくと同時に何か解らない物体に顔の顎の辺りがぶつかった。頭くらくらする。顎に何かが、ぶつかったのだ。と認識が出来たのは少し時間が経ってからだ。薄明りの中で息子の修が何かを被って顔だけ絵里子の方に向けて様子を探っている。絵里子は四つん這いになり、身体を起こし片足を床につけてから、ゆっくりと起き上がった。薄明りに目がなれると椅子でドアを固定してあった事が解った。椅子が横たわっている。5本脚の先にあるローラーの何個かが回っている音もする。ブラインドを開けるとベッドの中で海老の様にうずくまり、丸まったまま枕を抱えている修が居た。
「如何したの。具合が悪いの? お父さんの声は聞こえた? 今、何時だと思っているの。
お母さん出かけたいのよ。今日の講義はないの? 出かけないの? それにどうしたの。
何のために椅子をドアの前に・・・・・・。 それにしてもなんか、イテテ、痛いのだけど。怪我をしてないかしら。お母さん怪我してないかしら。 顎が痛い! あらら・・・ 膝も痛い」
絵里子は顎を撫でながら軽く足を引きずりながら、明るくなった部屋を瞬時に観察した。着ていたものが乱雑に床に散らばり、絵理子がつまずいた椅子の横にバッドが二本転がっていた。あっち向けホイとバットも言っているようだ」
「うるさいなー。 いちいち干渉しないでよ。 後で出かけるよ。 何処が?何が?何で?痛いのさぁー。お母さんは元気だから怪我なんかしないでしょ」
絵里子は起き上がって胡坐をベッドの上で搔き、タオルケットで身体を包み込み顔だけ出している修のクマになった目もとを見た。怒りが背中から立ち上がるが、どこかで怒りを静める部屋の状態と我が子の様子の変化があった。ひと呼吸おいて出てきた言葉は
「どうだったの? 伊香保の研修会。由美子さんの事を今度紹介してね。お母さんも会ってみたい。菊名のお祖母さんには二回も会っていて如何して・・・・・・私には紹介もなし、なの? いたタタ。痛いのだけど。足も顔も痛い! 」息子に猫なで声でとがめる様に穏やかに言っていたのがいつの間にか、大声になっていた。修の部屋に入るのは一週間ぶりだ。「うるさい! 」の修の声が絵里子の脳みそに突き刺さっている。怒りのためなのか、息子への腑甲斐なさのためなのか、だんだん苛々してきた。椅子を直しつつ、それでも江里子は母親の威厳を保とうと息子に気を使いながら会話を選んだつもりだった。菊名の義母への思ってもいなかった言葉が口から飛び出してしまった事を後悔した。
大声で静まった空気が絵里子の思惑で澱んでいく。
━由美子さんって、なんて失礼な女なのでしょう。なんで挨拶一つ出来ないの。菊名には寄れても片倉には寄れないのかしら。━
絵里子の心に住み着いている悪魔が耳元で囁く。(年上だから息子をフィギュアみたいに思っているし、彼は人畜無害の存在なだけだよ)
「えっ、由美子さんはだめだよ。 たぶん「フィギュア愛」の同好会を止めるのではないかな。あっ、解らない。それに・・・おまけにあいつは終わっている」穏やかだが棘のある修の声で絵里子は我に返る。
「如何したの。伊香保で何かあったの。終わっているって何が? 修ちゃんずっと一緒だったんでしょ」聞きたい事が山ほどあったが、絵理子は歯を食いしばり、我慢した。言葉はた易い。でも、下品な事は聞きたくない。知りたくない。
━えっー、辞めるって巾着はどうなるの。そうかーお義母さんには、この理由で面倒くさいから全部を辞めてもらおう。肩が痛いだの、腰が痛いだのと、気を遣うのには疲れたわ━
どこかで囁く頭の中の悪魔の声が引きつっている。「アー面倒くさい。面倒くさい。嫌だ、いやだ。関わりあいたくない」義母が巾着づくりで絵里子と楽しみが共有できる事が嬉しかったのが、絵里子の発案と労力でお店と言う形になった。作るのが義務の様になっていくにつれ義母には大変になった。絵里子には想定していなかった年寄りの部分だった。義母が苦痛になっていたのは解っていた。それ以外にも義母とかかわりあう頻度が増えるのも、おたがいの距離が近づくのもあまり考えていなかった。家族と言っても義理の関係は充足を産まない。菊名の家はもっと遠くであって欲しかった。久枝が大変になる事にも何の感情も湧いてこない事が絵里子は不思議だった。むしろ、香苗を心配する義母の様子に触れるたび、絵理子の心は色彩を失っていく景色があった。寂しさを通り過ぎると気持ちが冷えていく。
「私は巾着を無理に作らせてはおりません。お義母さんが手芸などと言うものが、好きだからお手伝いをしているだけのよ」絵里子の悪魔だか、天使だかが微笑んで言う。
我が子、修の虫の息のような声で絵里子は我に返った。
「うん・・・・・ン、お父さんは今日、何時に帰るの。相談したい事があるんだ。お母さん、聞こえているの」
「聞こえたわよ。なんで、小声でしゃべるの? 言っている事が良く解らない。お父さんは仕事が忙しいから、何時に帰るのか解りません。お母さんが急用で携帯に連絡を入れても返事がある事はない。もう、このごろは怒る気にもなれない。男は社会の中で生きていると言う二面性を絵に描いたような人なのよ。切り替えができる男は一杯いる。仕事の疲れを家庭に持ち込んでもらっても困るのよ。自分が悪いのよ。不器用だから。お母さんだってお父さんの尺度でなんだ、かんだと押し付けられ、思いどおりにならないと口を利かない。決めつけられるのは御免被むりたいわ。女だっていろいろあるのよ。それに聞こえた? さっき出かける時に大声で男にはいろいろあるんだ、とか言っていたけど。それはこっちのセリフだわ、女だっていろいろあるのよ。何ヨ、男だ、女だと分けちゃって。昭和レトロの菊名の家みたい。今は時代が違います」思いっきり宏への我慢していた怒りが口から出てしまった。
修が生まれて半年が過ぎた頃だ。寝がえりに始まり、はいはいをし出して目が離せない時があった。猫の手も借りたいある日の事、宏からの電話で財布を持ち忘れているようだと連絡を受けた。落としたのかもしれないので、確認して欲しいと言われて宏の書斎として使っている部屋に入った。机の上を確認して、すぐにお財布を見つける事が出来た。ふと興味が湧き中身を覗いてみた。お札の数枚を数えてみた。あんまり減っていない。夜遊びはしてないようだ。真面目じゃないと思い、ほくそ笑んでいた。
何枚かの千円札の後ろに写真であろうと思われるものを見つけた。綺麗に薄紙で包まれていたからだ。そっと取り出し切れないように開けてみた。にっこりと微笑むハーフっぽい女の写真だった。隅に「レイラ」とサインがあった。「なんじゃ、この女」はと思って暫く眺めていた。ママ友ランチの時間に間に合わなくなると、時計を確認した。一瞬この女の事をどうしようかと迷ったが、宏からどんな言葉が出てくるのか言わせてみようと、絵里子はわざとお札の間に入れた。宏が気付けば何か言って来るだろうと想い、込み上がってくる不快感を胸の中にしまった。修の泣き声が聞こえる。それにしても綺麗な女だ。抜けるような白い肌。ブルーグレイの瞳。足腰の長さ。
宏も面倒くさい男だとその時に思った。だからその息子も良く、ひーひー泣くんだわと慌ててミルクを飲ませた日が蘇った。その想像した女の佇む後ろの景色も男にはいろいろあるのだと呟いている。あの時、帰ってきた宏は絵里子が見たであろう写真の事には触れなかった。気になっていたが、月日に流されていた。宏と何か口論になるとあの「レイラ」と言う名前が絵里子の頭に出入りした。
「お母さん、煩い! だから慇懃無礼な女ってお父さんから思われているんだよ」修の声に我に返る。
「修、あんたも煩い。もうお母さん出かけるから好きにしなさい」絵里子は怒りたいのをこらえて飲み込んだ。もう子供ではないのだ。それに慇懃無礼な女って誰の事? この私? 何時から二人でそう呼んでいるの。えっ! 失礼でしょ。初めて聞く言葉に絵里子は狼狽えた。まさか宏が言っている? 息子の修がなんで・・・ 何時から・・・ 宏と共謀しているなんて許せない。絵里子は、今日はスポーツジムに行く日だった。頭の中の澱んだ血が流れて膨張してくる。頭がくらくらしてきた。頬に涙が伝わる。そっと人差し指で拭うと顎の辺りに忘れていた痛みを感じた。
「お母さん、少し話が出来るかな。お父さんが帰る前に聞いてもらえるかな」絵里子の様子に修が戸惑うように言った。
「解った。下で待っています。何か食べる? もうお昼よ」絵里子はまた、足を撫でながら修に背を向けた。怒りも静まり絵里子はまた、辛くなった。会話の少ない日々。時間はあるのに自分ために使う時間は少ない。家族の健康に気を使い、食生活に気配り、食材のために時間を割き、家庭の中でハツカネズミの様に同じ場所で雑務に追われている。自己啓発がないわけではない、こだわりの中で妄想して一日が終わる。解ってはいた。こうした生き方以外には私には出来ない。そんな自分自身にも哀しみが這い上がる。家族に流されたくないけれど、休むこともなく様々な出来事が降りかかる。優先順位を考えると家族を第一にしてしまう。その結果が今の自分だ。結婚して何年たったのだろう。歳を重ねた分、視野は広いはずだ。客観的な判断だってできる。家族とは何なのだろう。こうした大事な我が子に降りかかる出来事も誰にも選択は出来ないのだ。知恵、配慮、才覚を駆使しなければ。私の出番だ。子供と分かち合う愛は減らないはずだ。修には不自由を乗り越えさせてきちんと生きていける大人にしなければと考える絵里子が居た。
暗い窓から外を見ると暗雲が垂れこんできていた。低気圧が雷を伴い大雨になりそうだった。どこかでぴかっと光る稲妻も見えた。
絵里子は修の話が何だろうと気になって仕方ない。膝を撫でながら心は上の空だ。鏡で顎を確認したが大事にはなりそうになかった。冷蔵庫からまた、伊香保プリンを出して紅茶を入れた。トースタ―にパンを挟む。御飯があるからピラフでも作ろうかとも考えたが、修の話が気になり自分の行動がちぐはぐだ。一体、何があったのだろう。何の話だろう。頭の中で喪失感もリピートする。納得できない出来事が迎え入れられない自分を想像する。とりあえずスポーツジムは辞めておこう。天気も悪いから。絵里子は着替えを入れたバックを横目で見ながら自分自身に言い聞かせていた。パンにバターをぬってから、そのパンを自分の口に銜えていた。食べるのは私ではないと、慌ててもう一枚を焼く。パンの香ばしい匂いと紅茶の香りが混じって少し蒸し暑くなった気温と混じって漂う。雨音が大きく聞こえる。立ち上がりキッチンの前の窓を閉めた。これで完全に夏が来る。
「修、修。如何したの。ピラフが良い? トーストのパンを食べる? 」と階下に行ってまた、声をかけた。が、声が響くだけで蒸し暑くなった空気で声が澱んでいく。暑い。梅雨は明けたはずなのにと思う。それなのに又、低気圧が停滞して日本列島を覆っているのだ。
昔、結婚して間もないころ朝出かける宏にドアを閉めながら、絵理子は
「今日はお天気が崩れそうね。気を付けてね」甘えて囁いた。
「そうかね。お前の尻の穴と同じだよ。渇いたり、湿ったりだよ」と言いながら片手を挙げた後ろ姿を残し絵里子の前から消えていった。その時の事がお天気情報を気にするとき、いつも蘇る。なんという下品な男なのだろうと。親の顔が見たいと思ったら宏の背中に久枝の柔らかな笑顔が浮かんだ。あの時と同じような雲が流れている。そうか、夏休みだ。夏休みに何かしたいのだろう。留学かな。それもいいだろう。何か欲しいものがあるのかな。あっ、そうか。由美子さんと何かあったのだろうか。いったい、何人で伊香保に行ったのだろう。由美子さんのほかに誰か車に載せていったのかしら。「フィギュア愛」の同好会って何人いるのだろう。知らない事の多さに絵里子は愕然とした。「由美子はもう終わっている」の修の言葉が胸に刺さる。
修には修の人生がある。また、トースタ―器に入れたパンが、早く食べてよと、こんがりとキツネ色になり飛び出した。「パカン!」その音にトースタ―器まで馬鹿にするのかしらと眺めていると階段を降りて来る修の足音がする。何故かスリッパの音がしない。素足で降りて来るのか時々ペタッと足が床から離れる微かな音がする。
「お母さん、お腹が空かないから何も要らない。なんだか良く解らない事が起きた」薄手のパーカーのフードを頭からかぶっている。上目遣いに回りを見回しリビングの解放された窓を閉め、エアコンのスイッチを入れた。絵里子と向かい合わず斜めの椅子に座った。ふて腐れているようだ。
「・・・・・・ そのフード何時まで被っているの」
「・・・・・・ うん、なんだか怖い」背中を丸める。
「えっ、何が怖いの」
「うん、誰かにつけられているようで」
「えっっ、この家の中で? 」
「雨が降ってきたから誰も居ないよね。家の周りにも」立ち上がりリビングの窓から外に面した道路を探る様にしている
「誰かいるの? 」絵里子も立ち上がる。同時に修が戻って来てまた、猫の様に背中を丸めて座る。
「実は、帰りの最後のドライブインでね。関越自動車道から高速道路に入ってしまったらトイレ休憩も出来ないからと由美子さんとお土産を物色しながら遊んでいた。関越自動車道の最後のインターなのでいろいろな関越の地方の銘菓がこれでもかと置いてある。それこそ東京では手に入らない銘柄のお米もあるんだ。お酒だって同じだよ。現地の酒造屋さんで地元の人が予約しても本数制限があって手に入らなかったのも置いてある。お寿司の回転ずしのコーナーやら東京の名店が並んでその前に小さなカフェまである。そこで由美子さんが、あれこれ気になった銘柄のお菓子のうんちくを言うので楽しんでいた。帰りの時間に合わせて、由美子さんがトイレに行った。それで一人でスマホのゲームをしていたんだ。すると
「ここ、いいですか?」と聞かれて
「いや、使っています。相手が着ますからと言ったんだよ」
「へ―、仲がいいんだね。昨夜は上手く行ったかい?と変な事を言う。絡んでくるので、席を空けた方がいいと思って立ち上がった。その男から離れようとしたら腕を掴まれた。何をするのですかと言った途端、その男が側にくっついて立ちはだかった。薄い羽織物の脇に抱えているものに僕は気が付いた。バットだよ。金属バット。タオルで巻いてあった。それで怖くなった。話は何ですかと聞くと、あの姉ちゃんには近づくな。と言うんだ。俺の彼女だから、と言った。そこに遠くから由美子さんが歩いてくるのが見えたのか男はもう一度言うんだ。
「あの女は俺のものだと」と凄まれた。言いながら修はパーカーのフードを被り直す。
「えっ! それって脅されたの」絵里子は息子の顔を覗き込む。
「そうだよ。怖いよ。金属バッドを持っているからだよ」
「なんで? 金属バッドが怖いの? なんで持っているの? 野球が好きなんじゃないの」
「お母さん!それで殴られたらどうなるの。おまけにタオルを巻いてある。もういいよ。
お母さんには解らないよ」と修は身体を椅子に沈めてテーブルの下に潜り込んだ。
「でも其のあとは如何したの。由美子さんは気が付かなかったの」覆いかぶさる様に言葉をぶつける。
「僕が呆然として立っていたから、どうしたのと聞かれた。横にいたのにその男はいなくなっていた。周りを探してみたけれど、その男は見つけられなかった。由美子さんを怖がらせてはいけないから、早く帰ろうと促して慌てて車に乗せた」
絵里子は顎の痛さも忘れて修の話を聞いていた。膝をさすっていた手が両腕を組んで上下に撫でていた。修の恐怖が絵里子に伝わり見えないものが背中を這い上がる。心拍数も上がっていた。修の話の信憑性が如何なのか迷う。話が支離滅裂過ぎて良く解らないが、修の怯えた様子が絵里子に伝わり、怖くなっていった。
絵里子は修の頭を微かに触りながら聞きたかったことを恐る恐る言葉にしてみた。
「由美子さんとは何もなかったの」一瞬間があった。戸惑うように
「実は、二人だけになる時間が多かった。だけど解ったのは由美子さんが男には興味がない事だった。前に菊名に来た時の帰りに、父親とは小学生の3年生から会っていない事や母親と祖母と暮らしている事などを聞いた。それに最近ではないけれどストーカされた事等も聞いていた。男の人が怖いとは言うけれど男を知らないわけではないらしい。僕はフィギュアではないのに人畜無害の男でも女でもない人みたいだよ。結構口の利き方も乱雑で感情もしおらしい時もあるけど、あまり感情を引きずらない。泣いた後でも、結構けろっとしている。あの子も怖い」
「其のあとは、その男は如何したのかしら」
「解らないよ。運転に夢中だから、後をつけられたら怖いから、注意してバックミラーばかり見ていたよ。由美子さんは寝てしまうしね。菊名の家のおばぁちゃんに会いたいと言うので連れていった。巾着づくりの事もあったからね。其の後はおばぁちゃんから聞いているでしょ。菊名駅まで送って行って駅で別れてまた、菊名の家に車を取りに行く、帰り道で気が付いた。電信柱の人影や、後ろから歩く足音が気になり振り返るけど近くには誰も居ない。怖くなって一旦は駅に戻った。おばぁちゃんの家を誰かに知られて何かあったらいけないからね。渚さんの酒屋に飛び込もうかと思ったけど、迷惑になったらいけないと思い、駅前の交番に飛び込んだ。脅されたこと等を話したけど、聞いてくれた警察官は信じていなかったのかもしれない。何も証拠がない。一応被害届を出すにしても何もない。怪我をした。何かを取られた。とか現実の被害がない。途中からその警察官の後ろに立っていた私服の警官はウロウロしながら僕の事を観察していた。あれは信じていないのかも知れない。気が付いたよ。事件でも何でもないからね。一応聞いてくれただけで、気を付けてお帰り下さい、と見送ってくれた。また、おばぁちゃんの家まで戻る時に誰かの足音がする。振り向くと辺りには誰もいない。良太さんの店に飛び込みたいのを我慢して車に飛び乗り帰ってきた。絶対あの男だ。この家も見張られている」
「修ちゃん、大丈夫ヨ。誰も居ないから。ちゃんと座って。こんな大雨だから外には誰も居ないわよ」と言いながら絵里子にも恐怖が伝わる。雨戸を閉めながら外の様子を伺う。閉ざされた雨戸に吹き付ける雨音だけが大きく心臓と共に響いていた。
修が自室に引き上げた後で、宏に絵里子は電話を入れた。大変な事がありなるべく早く家に帰ってくるように話した。宏は最初、煩がっていたが、絵里子の怯えた声に「解った」とだけの返事をした。言葉通り早い時間に帰宅した。一通り絵里子の話を聞いて修の部屋に入っていった。
今後の事ではやはり、息子の事が心配になったと出てきた宏が父親の顔で絵里子にも言う。如何したものかと宏は途方に暮れた。宏の息子を想う気持ちは絵里子にも伝わる。修に心配するなと言ってもベッドの中でうずくまっている。菊名に何かあっても困る。見えない恐怖が修を通して宏にも絵里子にも伝わっていた。修を何とかしなくてはならない。宏が頼りなく思え絵里子は苛立った。
部屋の窓から庭を見た。雨上がりの澄んだ空気と蒸した熱気が伝わる。疑心暗鬼のアクシデントが無防備に生きる幼さを奪っていく。頭を抱えて宏は修の堕ちた穴を想像する。
翌日から、怯えて背中を丸めて歩く修が居た。絵里子は修の後を付けて歩く。電車に乗るまでの間、見守っていた。が、数日たっても何かおかしな人影は見当たらなかった。その報告を早く家に戻り聞く宏が居た。修も日ごと元気になって行った。大学の学生課にも宏は連絡を取って息子に何かあったら保護を頼んだ。学生課では、解決に向けて多くの学生を巻き込ませてはならないのでご家庭の方でもきちんと解決に向けて対応をお願いします、と言われた。暫くは修のために休学もやむを得ないと宏は考えた。
一か月後、宏は絵里子と相談して香苗に連絡を入れた。香苗はプロバンスで旅行客相手の通訳をしながら離婚に向けて準備をしていることが解った。宏は修の事で相談があり本人から連絡を入れさせる事を伝えた。
修の留学の意思を確認した宏は絵里子の同意を得て、ひとまず香苗の住むプロバンスで語学学校に入れる事にした。香苗も喜んだ。絵里子は息子の自立のため手放す覚悟を決めた。それまでの葛藤は絵里子自身には生きる事への長く冷えた寒さを伝えた。親子といえども自分のものではない。傷と傷によって深く結び付いて行く事もある。痛みを分け合う悲痛な叫びを伴わない静寂や穏やかな時間はない事も宏と話し合った。家族としての繫がりの根底にある物を考え、修のため絵里子は寂しさも受容した。
菊名の家から電話を受けたのは数日後だった。浩一が倒れたのだ。おまけに久枝が浩一の入院した病院に付き添うのには困難だと連絡があった。久枝も健康診断で大腸がんの検査に引っかかり再検査の結果、手術をする事になったと言うのだ。絵里子は宏に宣言をした。
「私が出来るだけお世話をします。貴方もお手伝いを宜しく、ね」清秋と言う季語を思わせる絵里子の笑顔があった。
この記事へのコメント
カラーピーマン
修が由美子のストーカーから脅され、浩一が病に倒れ、久枝も大腸がんの手術。それでも絵里子は清々しい笑顔を浮かべる、女の覚悟を感じました。宏も修も頑張れ!! とエールを送ります。
かがわとわ
いつも本当にありがとうごさいます。
怒涛の展開! このあとは如何に??
それは、次回の書き手が今構想中です。
誰が書くかは、お楽しみに。(^^)v