第7話 渚の場合 芦野信司(絵も)

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登場人物  小林 渚  48歳 小林酒店の一人娘
      小林翔平  27歳 渚の長男
      小林正男  50歳 渚の夫
      小林ゆう子 73歳 渚の母
      宗次良太  48歳 焼鳥屋の店主
      ギルバート・香苗  48歳 英国在住

 菊名駅前の商店街は道が狭い上に車の往来が激しいが、街道からちょっと入った飲食店の並んだ路地の午前はひっそりしている。
 「やきとり むねつぐ」の看板がかかった店の前に、小林酒店と名の入った軽トラが止まった。運転席側のドアが開いて若い男が降り、反対側から渚が降りた。若い男が店の戸をガタガタと引きながら「こんにちは小林酒店です」と声をかけた。
「オー翔平か。ごくろうさん」店主の良太が応えた。「お母さんの手伝いかい?」
 翔平と呼ばれた若い男が少し躊躇するように答えた。
「いえ、手伝いじゃないんです」
 渚が、翔平の大きな背中の横から顔を出した。
「来年の結婚を前に、いよいよ本式に酒屋をやってくれるんだとさ。前の会社を辞めて、今日はその初日。納品しながら、お得意さまに顔見せしているの」
 渚が翔平の背中を押して「ほら、注文のお酒をトラックから持ってきて」とどやした。
「これから、よろしくお願いいたします」
 翔平は良太に丁寧に頭を下げて、外に出て行った。
「うちのおばあちゃんもだいぶ歳になったので、お嫁さんと一緒に住んでくれるって言うの。古い家だけど独りで住むには大きすぎるし、夜も安心だからありがたい。お嫁さんは店番もしてくれるみたいだし、願ってもない話なんだけどさ、なんだか気の毒で」
「せっかくなので、渚も一緒に住んだら? ご亭主と一緒に」
 渚は、上目遣いに良太をにらんで首を横に振った。
「いやあ、それは無理。あいつは自己主張なんかしないように思われているけど、とんでもなく頑固よ。私と結婚するとき、うちの父親から言われたことをずっと根に持っているからね」
「結婚してからあらかた30年にもなるのに?」
「いくら経っても、それは変わらない」
 渚と良太がそんな話をしている間に、翔平が生ビールの樽と瓶ビールのケースを店内に運び込んだ。
 良太は、そんな翔平の姿を見ながら「亡くなった親父さんが、今頃喜んでいるよ」と言った。「そうだ、翔平。日高見も置いていってくれよ。おまえの母さんがこの間、飲み干したから」
 渚が反論する機先を制して、翔平が鋭くこたえた。
「毎度ありがとうございます」
 翔平はまた外へ出て行った。 
 良太は、生ビールの樽を両手で持ち上げ、カウンターの内に運び込んだ。代わりに空の樽を持ってきた。
「そういえば、この間、香苗のご両親と甥子さんが来ていただろう。あのとき話が出ていたんだが、香苗の旦那の会社が倒産したんだって? それで香苗がロンドンから日本に帰ってくるとか来ないとか言ってたけど」
 良太はそう言ってからビールケースに手をかけた。作業の片手間に訊ねているという風だった。腰を下げて、よいしょと持ち上げた。
 渚は、甥の手前、香苗のことはあまり話さなかったことを思い出した。
「離婚するかもよ」
 渚は、良太がびっくりするだろうと思いながら、少し意地悪なぐらいにあっけらかんと言い放った。
「そうか」
 良太は、ビールケースをカウンター内に運び込んで、奥にある大きな冷蔵庫を開け、ひと瓶ずつしまい始めた。
 その後ろ姿を見てると、渚の脳裏に中学一年の最後の日の事件が蘇った。終業式のあと、良太と香苗が居なくなったのだ。渚の家に香苗の両親が訪ねてきたのは、その夜の8時だった。まだ、香苗が家に戻っていないという。その前に学校に連絡したら、良太も家に帰っていないことが分かったという。結局9時になって二人はそれぞれの家に戻ったが、二人は何をしていたかを話さなかった。学校を巻き込んだ事件となったため、二人は根ほり葉ほり訊き出され、二人で山下公園に行ったことと、県内有数の進学校に合格した兄に香苗がプレゼントを探していたことがわかった。
 学校は新学期までの休暇に入ったが、噂は尾鰭をつけて広がり「良太は不良」のレッテルが貼られてしまった。香苗は、小学生からずっと友だちだった渚にめそめそしながら「私が誘ったので、良太は悪くない」と訴えた。香苗の両親も日頃の香苗を知っているので苦笑いで終わったらしい。しかし、生意気盛りだった良太は先生に何か暴言を吐いて、父親からこっぴどく殴られたという噂だった。
 良太はあの頃から香苗が好きだったと渚は思い返した。そして、あのとき渚が受けたショックも。良太が哀れだと思った。
「良太さん。今見たんですが、日高見を積んでいなかったので。ちょっと店に帰って持ってきます」
 翔平が、入り口から声をかけた。
「いやあ、急に言った俺が悪かった。今度でいいよ」
「いえ、どうせ直ぐです。ご迷惑でしょうが、母さんの話し相手をしていてください」
 渚は翔平を振り向きざま叱ってみせた。
「何をバカなことを言ってるんだい。さっさと行ってきな」
 軽トラが走る去る音が聞こえた。
 渚はカウンターの椅子に腰を下ろして良太を見た。
「香苗の旦那の何とかという大きな旅行会社が倒産したんだって」
「それで離婚かい?」
「理由じゃなくて、きっかけかもしれない。昨日、とにかく一度戻るってラインが来たから早々に戻るんじゃないかな。なにせこうと決めたら曲げないからね」
 渚はそう言ってから、ひとり笑いをした。
 良太は、渚の笑いをとがめるような目つきをした。
「何だい。何が言いたいんだ」 
 渚は、良太が中学の時の事件を思いだしているのじゃないかと思って、ちょっと横を向いてもう一度ふっと笑った。
「ほら、私たちは公立高校の商業科に行ったじゃない。それに対し香苗は私立高校。私たちは継ぐべき家業があったからさ。良太は魚屋を継いでいないけれどね」
「俺と親父はうまく行かなかったから」
「私も同じよ。酒屋を継げの一点張り。私に選択の自由はなかった。だから、香苗がうらやましかった。高校卒業の時、香苗と伊豆に旅行に行ったのもそれぞれ違う道に行こうとしている感じがあったからだったけど、稲取から帰って来ようという時、香苗がヒッチハイクしようと言い出したのよ。一人じゃ怖いけど二人なら大丈夫だと言って。私は反対したのよ。でも、香苗はね、二人の思い出を作るんだって聞かないの。そのとき止まった大型トラックがうちの亭主との馴れ初めになるんだから不思議。私が結婚したのは、あのとき香苗が自分の意見を曲げなかった結果よ。それを思いだしたの」
「ああそうだ、渚に長距離トラックの運転手の恋人ができて、あっちこっち遠乗りしてるって親父さん怒っていたもの。そのうち、子供ができたってぼやいていたけど、それが翔平なんだから結果オーライ。渚の結婚は大成功。俺や香苗とは違って」
「とんでもない。あいつは、わざわざ私が困っている時に浮気していたもの。最初は父が入院したとき。翔平は小学校に上がっていたけど次男が幼稚園で娘がまだ3歳だったかな。酒屋の仕事が分からなくててんてこ舞いだった。あのときは良太にも配達手伝ってもらったよね。ほんとにありがたかった」
「困ったときは助け合わないとね」
「ところがさ、うちの亭主は絶対手伝わなかったもの。父が出した結婚の条件が二つあって、一つは店の跡継ぎは私であること。だから店の財産や仕事には関わらせないと言ったからね。もう一つは私が一人娘だから小林の姓は捨てさせない。お前が婿になって近くに住めだった。この約束だけは守ってるよ」
「他にも浮気はあったのかい」
「あったね。浮気していると帰って来なくなる。その点、父は男を見る目があったのかな。父はあいつのことを猫みたいな奴と言って嫌っていたから。いつの間にか居なくなって、いつの間にか帰っている。長距離トラックの運転手で、いつも家に居ないから、居ないのが当たり前みたいなところがあって、子育ても私とうちの母に任せっきり。家に居るときは、いつも寝ている。今日も居るけど寝ているものね。そんな結婚が大成功なら、結婚って何よ」
 良太は、頬に手をやり目をつむって渚の話を聞いていた。黙ったまましゃべらない。渚もカウンターに顔を突っ伏したまま動かない。良太は腕を伸ばして、渚の髪に手をやった。
「いいよ、やさしくしなくたって。また好きになっちゃうじゃない」
 渚は顔を伏せたままそう言った。良太の手が渚の髪から離れた。
 良太は、冷蔵庫から鶏肉のかたまりを取り出してまな板の上で焼き鳥の下拵えを始めた。同じ部位の肉を適量の大きさに切りそろえボウルに移していく。それを取り出して串を打つ。タッパーに詰めて冷蔵庫に戻す。葱なども水洗いしてから水分をふき取り、同じ大きさに切っていく。良太の包丁の音が軽やかにまな板に響いた。
 渚にはその音が子守歌のように心地よかった。少し眠ったのかもしれない。気がついたときには、翔平が横にいた。
「母さん、次行こうか」
 翔平の手が渚の背中を揺すった。
 カウンターから顔をあげた渚に、良太が一升瓶を持ち上げながら笑っていた。
「日高見、入ったから。待っているよ」

 軽トラは混んだ街道を走り大きなビルの裏に入り込んだ。ビルの地下にお得意さまが三軒ある。翔平は折りたたみの台車に酒やビールのケースを乗せ、車と店を何度も往復しながら納品をこなしていく。渚の仕事ぶりも誉められることが多いが、翔平のスピードには叶わない。お得意さまにも翔平は好印象を与えたようだった。
 このあたり一帯は坂が多い。登りも下りも急だ。4WDの軽トラは嬉々として走り回る。隣町のお客様にも挨拶を済ませ、二人が小林酒店に戻ってきた時には二時近くになっていた。渚の母のゆう子が店番をしながら、二人のために昼食を用意していた。昼食のあとは小休憩。お得意さまが夕方の開店準備にかかったときにもう一仕事しなければならない。
 ダイニングの椅子でくつろいでいる渚に、テーブルを挟んで反対側にすわっていた翔平が声をかけた。
「今日が僕の酒屋の初日なので、お母さんに言っておきたいことがあるんだ。聞いてくれる?」
「もちろんよ」
「おじいちゃんが亡くなる前、僕を呼んで『店はお前が継げ』と言ったんだ」
「そりゃそうでしょ。おじいちゃんはお前が生まれたとき、跡取りができたって喜んでいたもの」
「うん。そうじゃなくってね。店はおばあちゃんに残すので、おばあちゃんからお前が引き継げって言われたんだ。お母さんじゃなくてね。僕、その時高校3年で、すぐにはいとは答えられなかった。それがずっと心に引っかかっていた。お母さんは聞いていた?」
「いや、覚えてない。おじいちゃんのことだから、そんなこと言ったかもしれないけど。あのころ、いろんなことがあって忙しかったからね」
「それでね、この前おばあちゃんに聞いてみたんだ。おじいちゃんから聞いてるかどうか。僕の思い違いかも知れないしね。そうしたら、おばあちゃんは覚えていた。そんなことを言っていたねって」
 翔平は一度目をつむった。祖父の遺言めいた言葉を言われたときのことを思い出しているようだった。
「おじいちゃんから言われたからじゃないけど、そういう相続の仕方もあるかなと僕は思っている。弟も妹も酒屋なんかまっぴらだと言うし、お父さんは端から関係ないものね。せっかく続いてきた酒屋だけど、いまのままじゃ先細りになると思うんだ。相続税の問題もあるから一緒に住んだ方がいいし、この土地を担保にお金を借りて店の上を賃貸マンションにする手もあると思うんだ。お父さんお母さんと一緒に住めるようにしたいし。これから、いろいろ考えないといけないんだけど、それを考えるのは僕だろうという気がする」
 渚は大きくため息をついた。翔平の考えていることの本当の狙いがどこにあるのかが全く分からなくなった。親孝行とばかり思っていた翔平だったのに、深い周到な計画をしていたことを知った。もちろん、周到な計画が悪いわけではないし、それが孝行と結びつかないわけではない。しかし、それは渚の生きている世界とは別物のような気がした。
「お前がそう思うんだったら、そうすればいいんじゃないかな」
 渚は、そう答えるのがやっとだった。

 渚は急な疲れを覚えて夕方の配達は翔平に任せることにした。翔平は、自分が変なことを言ったせいじゃないかと心配したけど、渚はそうじゃないと言って自転車で自宅に戻った。
 自宅は小林酒店から妙蓮寺の方向に15分ほど走ってところにある賃貸マンションの3階だ。娘も勤め始めて独立したので3LDKの間取りは二人暮らしには無駄な感じがした。結婚したての時に住んだ2DKの安っぽいアパートが懐かしかった。
 渚が鍵を開け「ただいま」と声をかけたが返事がない。リビングに入ると夫の正男の頭がカウチの端から出ている。眠っているらしかった。
ヒッチハイクで止まってくれた大きなトラックの窓から突き出た二十歳の正男の顔はびっくりするくらい幼顔だったことを思い出した。渚と香苗は思わず顔を見合わせたのだった。自分たちより若いのじゃないのかと怪しんだほどだった。そして、この人なら怖く無いと思ったのだ。
 渚はダイニングの椅子にすわって正男の寝顔を見た。あのとき正男は「助手席は一つなので、ひとりは座席のうしろのベッドになるけどいいかな」と言ったのだ。じゃんけんで負けた渚はベッドになった。香苗は大型トラックの視界の高さに大はしゃぎしていた。渚はうしろからシートに掴まるようにして、右手に広がる相模湾を見ていた。香苗と正男は随分楽しそうにおしゃべりしていたのに、横浜駅で降ろしてもらったときに電話番号のメモを渡されたのは、渚の方だった。
「もし、よかったら電話してね。今度は前の席に乗せてあげるよ」
あのときから結婚するまで、渚は香苗からさんざん冷やかされたものだった。
「ねえ、起きなさいよ」渚は正男の腕を揺すった。「香苗がロンドンから帰って来るんだって。離婚するんだって」
 正男は目をしばたたせながら「何だ、そんなことか。どうでもいいじゃないか」と面倒臭そうに顔をしかめた。そして、また目をつむった。
 渚はそんな正男の顔を見ていると無性に腹が立ってきた。正男の手の甲を思い切りひっぱたいた。
「痛い! 何すんだよ」
 渚の目は怒りに濡れていた。
「私だって、私だって、いっぱい我慢してきたんだからね」そう叫んで、正男の腕をぴしゃりぴしゃり叩きはじめた。「このバカ。このバカ。勝手に女作って居なくなっていたくせに。私が本当に苦しいとき、お前は何やっていた! 私が知らないとでも思っているの。絶対許さないから。一生許さないから」
 渚が怒り始めると自分の言葉に感情が煽られて怒りが収まらなくなる。正男は無抵抗で殴られている。こんな時は自然に興奮が収まるときを待つしかないのだというように。
「私を何だと思っているのよ。みんな私をバカにしているの?」
 正男は、渚の背中に手を置いて静かに宥めた。
 しばらくして、渚はしゃっくりをし始めた。
「あれっ、変ねえ」
 渚は急に憑き物が落ちたようにいつもの声に戻って流しに立っていった。そして、コップで水道水をひと飲みした。しばらくぼんやりしていたが、振り返って正男に言った。
「ねえ、またトラック乗りたいよ。店は翔平に任せて、一緒にあっちこっちへ行ってみようよ。ねえ、そうしよう」
                            

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第6話 良太の場合 かがわ とわ

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登場人物
宗次良太 48歳「やきとり むねつぐ」の店主。渚、香苗と小中学校が一緒だった。
渚    48歳 先代店主の父亡き後、「小林酒店」を通いで手伝っている。
杉本修  20歳 浩一、久枝の孫。

 引き戸の音に反応して、良太は顔をあげた。
「らっしゃい」
 すり硝子の下が腰板になっている引き戸は、モンゴルのホーミーのような音で軋む。ガーという低音とキーという高音がいい塩梅で混じり始めたのは、10年ほど前からだ。戸の滑りが悪くなったわけではないので、あえて建付けを調整しないでいる。入店客の知らせ代わりだ。
 戸向こうの暖簾を跳ね上げて顔をのぞかせたのは、渚である。
「ね、今、そこで」
「ああ、香苗の父ちゃんと母ちゃんに会ったんだろ」
「えっ、なんでわかるの?」
「ここで飲んでた。帰ったばっかりだ」
 渚はカウンターの椅子に腰かけつつ、
「うわ、意外。おじさんはともかく、おばさんもってことだよね」
 目を丸くする。
「中ジョッキね」
「あいよ」
 良太は、ささみ串を焼き台に置きながら、渚から二つ離れた席の青年をちらりと見て微笑む。ここ「やきとり むねつぐ」は、店主の良太ひとりで切り盛りしていて、カウンター席のみ7席で満席となる。L字型のカウンターの短い辺に2席。長い辺に5席。渚と青年は、長い辺に着いている。今の客は、渚と青年だけだ。青年は渚を追っていた目を良太に流し、答えを求めるように瞬きをひとつした。渚はジョッキを受け取るやひとくち飲み、ふぅ~と一息つくと、
「おじさんは散歩でこの辺の商店街歩いてるみたいだけど、今日は時間が遅いし、おばさんと連れ立ってたからさ。どこかおでかけした帰りかなって。おばさんが急いでいるみたいだったから、挨拶だけ交わして別れちゃったんだよね。へぇ。ふたりで来たりするんだ」
「いや、ふたりで来たのは今晩が初めてだ。っていうか、3人で来たんだよ、な?」
 良太が青年に声をかけると、青年は「はぁ」とはにかんだ笑顔で、ひょこんと頷いた。
「祖父と祖母と僕で」
 待っていたように話し出す。渚が青年側に肘をついて乗り出した。
「ってことは、香苗のお父さんのお孫さん……ってことは、え~と香苗のお兄ちゃんの」
「息子の、修といいます。香苗は叔母です」
「──だよね。そうか。香苗から甥っ子がいるとは聞いていたから。あ、私は香苗の親友の渚といいます。はじめまして」
「祖父たちのこと話してたから、誰かなって気になってました。叔母には、僕、子どもの時に会ったらしいんですけど覚えてなくて──結婚してからずっとあっちですし、会ったのも、彼女が独身時代に一時帰国した時だっていうから、かなり前の事なんですよね。父とか祖父母から話は聞くけど、正直遠い人っていうか」
「そうかぁ」
 早くもジョッキ半分を空けた渚が、腕を組んで頷く。
 良太がカウンター越しに、渚へささみ串を渡しながら、
「なあ、渚。本日、修くんは、人生最初のひとり飲みを始めたところなんだよ」
 修が渚に向かって、サワーのジョッキをあげ、
「昨日、二十歳(はたち)になったんです。僕」
 胸を張ってみせた。
「あら、そりゃ、おめでとう。大学生?」
「はい。2年生です。今日は祖父の家に用事があって寄ったんですが、成人祝いに欲しいものを考えとけって言ってくれて。じゃあ、おじいちゃんとおばあちゃんと一緒にお酒飲みに行きたいって答えたんですよ。子どもの時、よく祖父母が西口の不二家にパフェとか食べに連れてってくれた思い出があるんです。大人記念ってことで、お酒を、と。そしたら、祖父がとても喜んでくれて、旨い焼き鳥屋があるから今から行こうって連れて来てくれたんです。お酒もいいやつ入れてる店だから、ぴったりの場所だって。時々、祖父たちに会いに来るから、商店街に焼き鳥屋さんがあるのは知ってました。もしかして、ここ? と思ったら、やっぱりそうでした」
「酒のいいやつ、を入れてくれてるのは、この小林酒店の看板おばさん、渚だ」
「修くんのおじいちゃんもよく寄ってくれるわよ。私は香苗とおじいちゃんの伝言役だしね。ほら、あちこち配達してるから筋肉すごいでしょ?」
 袖を捲り上げて、二の腕を見せた。良太が笑いながら、渚の前にねぎまとつくねを置く。
「女性がビールケース持ったりするのは、かなりキツイんじゃないですか」
「コツがあるのよ。持ち手内側から手を差し込んで、手のひらが外側に向くようにこう……ね、話が遠いからこっちおいでよ」
 修に手招きし、椅子を引いた彼の皿やらジョッキやらを自分の隣に移動してやる。
「ところで、なんでひとり飲みになってるわけ?」
「祖母の肩の調子が悪くて……。最初僕は、祖母の具合が良くなってからでいいよって言ったんです。そしたら、祖母が僕の希望を早くかなえてあげたいからと……無理していたのかな。ちょっとだけビールを飲んでつきあってくれたものの、かえって調子が悪くなってしまって。ひとりで先に帰るって言うから、おじいちゃんに一緒に帰ってあげてよって言ったんです」
 あら~と、気の毒そうな顔になった渚に良太が、
「なぁに。ふたりが帰ったあと、修くんさ、実はひとりでこうして飲むっていうのも二十歳(はたち)になったらやってみたかったんだと。今日はいっぺんに叶っちゃったって現金なこと言ってたぞ。まあ、いいんじゃない? 今日の会計は、おじさんのツケで好きなだけ食べさせてやってくれと言われてるし。──ほんとのひとり飲みデビューは、してねえな」
 からりとした気持ちの良い話しぶりに、そうっすね、とついくだけた言葉を返した修が、頭を掻いて、
「あの~。質問していいですか」
 良太と渚を交互に見た。
「渚さん、入って来た時から自分で串を注文してないですよね。なのになんで、次々と串が出て来るんですか」
「お、いい質問だ。焼き鳥には、食べる順番の王道がある。美味しく食べられる順番だ。渚はとうの昔にそれを知っているし、俺は渚の胃袋の許容量も把握してるから普通に出しているだけだ」
「最初は塩で、味がさっぱりしたものから始めて、後半にはたれ系や油っぽいものに進み、仕上げは皮でしめると、どれも美味しく食べられるのよ。味の濃い部位や癖のある部位を先に食べちゃうと、そのあと口にした薄味の肉の美味しさがわからなくなっちゃう。でも、お客に食べる順番の蘊蓄をたれる煩い店主にはなりたくないから、おまかせでって言われると、嬉しそうな顔するの、この人。ついでに言わせてもらえば、焼き鳥に合う日本酒もあるし、部位や焼き方によってぴったりのお酒も変わるのよ。でも、よっぽと飲み助じゃないと、串ごとにお酒を合わせていたらベロベロになっちゃうからね」
「へぇ~。じゃ、ここからおまかせでお願いします。あ、お酒はおまかせでなくて。──渚さんは、よくいらっしゃるんですか」
「まあね。私と香苗と良太は同い年で、小中学と同じ学校だったから」
「良太? むねつぐさんじゃないんですか。看板に……」
「あ、この人も間違えた」
 手を叩いて渚が笑った。
「あのな、むねつぐは名字だ。宗教の宗に、次と書いて宗次。最初は看板を漢字にしようとしたけど、それだと、そうじ、とやっぱり名前と間違えられそうでな。どっちにしても、よく間違えられるんだよ。む、ね、つ、ぐ、りょ、う、た。覚えとけ」
 良太は渋い声をつくって、眉間にしわを寄せてみせた。修が一呼吸置いてから、
「祖母の肩の痛みは、僕が大学で所属しているクラブの都合で、巾着を短期間で10個作り、名前の刺繍も入れてと頼んでしまったことにあるんです。刺繍が困難になった祖母は、母にヘルプを求めました。母の話では、祖母との電話で祖母が無理をして刺繍にこだわっていることを不思議に思い、刺繍でなくちゃだめなんですか? 求められてるのは、名前を素敵に入れてあげるってことですよね? わかりました。任せて下さい。と電話を切り、ならば布用のペンで書けばいいと決めると、ちゃっちゃと調べたそうです。布用のカラフルなペンが豊富にあり、キラキラタイプやもこもこ立体に浮き上がるタイプなどが揃っていることがわかった。続いて、あなたの友だちでレタリングの得意な子いる? と指示して来たので、副部長に事情を連絡したら了解してくれました。アニメの絵とかデザインとか得意なやつ、うちのクラブに多いんで。無事解決」
 渚が、興味深そうに「何クラブ?」と訊くと、ちょっと照れた顏で「また、今度」とスルーして、良太があいよと置いた皿を指さし、、
「このV字型のは、なんですか。居酒屋で見たことあるような、ないような」
「まつば。鎖骨。修くんさあ、二十歳(はたち)になる前から飲んでただろ。いい飲みっぶりだ」
「──そりゃあ、1年前の新歓コンパの時から。──普通ですよ。でも、ひとり飲みは初めてです」
「おばさんは、修は初めてのお酒だからコップ一杯にしておきましょうねって、ビールを注ぎ分けていたもんなあ。帰ったとたんにサワー頼んだから、こいつ」
 ちよっと自慢気な顏になった修を見て、渚の声に笑みが混じる。
「おばあちゃん、肩の酷使が続かなくて良かったわね」
「でも、刺繍じゃなくていい事になったら、なんだか、しょげちゃってたんですよ」
「──そうかぁ。可愛い孫のために、当初の注文通りにしてあげたかったんだね。う~ん、お母さんの気持ちもわかるし。難しいね」
「母はすべてに合理的でロジカル思考です。何か解決したい問題があったら、まず頭を使えと言われてきました。僕、小学生の時、最初は逆上がりと跳び箱が出来なかったんですね。それを知った母が、努力や根性でやろうと思うな、理論だ。逆上がりは、大きく蹴り上げただけではだめ。体をしっかりと鉄棒に引き寄せること。跳び箱は、高く飛ぶことより、向こう側に行くつもりで飛べ。できるだけ前に手をつくことが大切、と。──すぐ出来るようになりました。びっくりするほどチョロかったです。今回の巾着も、母の提案で祖母の手芸品をレンタルボックスで売ることを提案したのがはじまりでした。母としては、祖母とのウィンウィンを狙ったわけで……。母らしいというか。このまつば、淡泊であっさりしていて美味しいです」
「だろ? スパイスがよく効くんだ。おまえの母ちゃんみたいにな」
「ウィンウィン? お母さんは何かの問題を解決したかったの?」
「それは、え~と。母は企画を楽しめて祖母は好きな手芸がお小遣いに繋がるという、そんな感じです。基本、母と祖母は仲がいいんですよ。だから家に帰って、祖母がしょげていたこと伝えようと思います」
「お母さんは、テキパキ系みたいだけど、だからって何も気にしないわけじゃないと思うの。伝える時にはお母さんの気持ちも考えないとね。──ま、頑張りたまえ」
 渚は、修の肩をポンと叩いた。
 良太は、小学校の時に、渚が逆上がりの出来ない子の後ろに回って、背中で押しあげてやっていたことを思い出した。昔から人の手助けをするのが好きなやつだった。喧嘩しているクラスメートがいると、両方の話を聞いて「う~ん。どっちの話もわかるなあ」というのが口ぐせで、さりげなく仲介役をしていたっけ。そんな渚を良太は、いい子ぶってる、や~いコウモリ! と皆の前で茶化したことがあった。良太がその日、家に帰ってれんらく帳を開けると、「りょうたのばか なぎさより」と丸っこい字で書いてあった。翌日、良太が渚にノートを突きつけると、「あれ? 消してないの? 赤鉛筆で書こうと思ったけど、普通の鉛筆にしといたんだよ」と消しゴムを渡された。
 実は良太が離婚したあと、渚と危うい関係になっていたことがある。渚は20歳で結婚して隣町に住むことになったが、店主である父が腰痛をだましながら働いていたこともあり、週に何度か店の手伝いに来ていた。良太は31で結婚して、翌年には妻が男をつくって出ていってしまった。店のアルバイトだった妻とふたりで店に立っていた良太は、ショックと忙しさで心が不安定になり、それを助けたのが渚だった。渚はすでに3人の子持ちとなっており、10歳の長男を頭に、次男8歳、末っ子の長女は7才だった。納品に来たついでだと言って、仕込みの串を打つ良太を気遣いながら、出来る仕事を見つけて手伝った。溜息混じりの良太の繰り言を黙って聴き、いったん店に車を戻して、子どもの帰宅までに家に帰るという多忙な時間を繰り返した。良太も渚も、毎日が酷く疲れるぶん、どこか興奮していた。赴くままに濃密な関係となってしばらくした時、良太から「悪かった。もう大丈夫だ。ごめんな」と頭を下げて友だちに戻った。「大丈夫なんだ──良かったね」そう言って、渚は菩薩のように微笑んだ。誰も──香苗も知らない短い間の話だ。
「良太さん、ひとりで大変じゃないですか。バイト入れればいいのに」
 修が白レバーを歯でしごきながら見上げる。
「コスト削減だあな。カウンターでこなせる狭い店だし、もう長くやってるから手際いいだろ? ひとりのほうが気楽でいいよ。──白レバー、どうだ?」
「レバーっぽい臭みがなくて、まろやかで」
 修に続けて渚が、
「甘味があって、とろけるようでしょ。舌全体で味わいなさい」
 備長炭に落ちた肉の油が香ばしい煙となって、もつれあってから離れるようにひろがってゆく。
「良太、日高見、お願い」
 キレのある超辛口純米酒の名をあげる渚の串は、肉の油たっぶりのぼんじりとせせりだ。修の皿にも、同じものが乗る。渚はおちょこをもうひとつ頼んで、修にも注いでやった。
「おいおい。飲ませ過ぎると、おじさんたちに申し訳がたたないぞ」
「そうね。今日はこのへんにしておきましょう。じゃ、最後の皮はパリパリに焼いてくれる?」
「あ、僕もパリパリでお願いします」
「今度は、彼女連れてこい、な」
「──いえ、いないんです」
「なら、いいなと思う人、連れておいでよ。良太がさ、君たちの懐に合わせて串を出してくれるよ」
 覗き込む渚に、
「ほんと、いないんですってば」
 即座に否定する修に、
「わかりやすいな、おまえ」
 良太も覗き込んで笑った。
「次回からは、バイト代で食べに来ます。ごちそうさまでした」
 立ち上がった修が、少しふらついた。
 
 駅まで送っていくわ、と渚は修をかばいながら店を出ていった。
 香苗の甥っ子かぁ。香苗はどうしてるかな。旦那の会社が倒産したっていうから、心配なんだよな。渚に彼女の様子を訊いてみたかったんだが。まあ、あいつは3日後の納品でまた来るから。
 良太は暖簾を中に入れ、備長炭の火を落とし、たれ壺の表面を網で掬って綺麗にして蓋をした。使った串を捨て、食器を洗い、焼き台を掃除して、最後にカウンターを丁寧に拭くと焼き台側のカウンター下にしゃがんで、裏側を見上げた。
 良太のばか
 渚の丸っこい字が、そこにある。渚と別れてちょとしてから、それを見つけた。あいつは、俺が気づかないと思っているだろう。マジックで書かれた文字を、良太は串を打つより丁寧に触れた。



第5話 久枝のストーム  麻如莉樺

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 登場人物 
 杉本 久枝  杉本 浩一 
 杉本 絵里子 杉本 宏  
 杉本 修   大西 由美子
 ギルバート香苗  ギルバート・ジャック 
      
 その夜、雨雲レーダーの予報どおり、食事の終わった頃からバケツをひっくり返したような雨に変わった。古くなった家のあちこちで大きな音を立てている。
久枝は濡れ縁がまた、腐ると思いながら
「修は雨に逢わずに帰ったかしら」
「由美子さんって言ったね。爽やかな春の香りがするようなお嬢さんだったね」浩一がご飯粒をカッターシャツの襟もとに二粒くっつけて、嬉しそうに言う。顔の中の筋肉は何処も緊張感はなく、締まりがない。
「貴方、ご飯粒付いているわよ。それに修の事を言っているのに、若いお嬢さんの事しか頭にないの」つい、言葉がきつくなる。
「なんだよ、修か。うん?ご飯粒、何処に付いている」と口の周りを手の平でなぞる。箸が久枝に向けられて輪を描く。
「あのね!・・・ もう、いいわよ。ご飯を床に落とさないでくださいね。自分の足で踏んでも気が付かないのだから。床に伸ばしてガサガサにして」憎々しげに、ボソッと言った。     浩一は垂れて二重になった顎でシャツの胸元や襟元を見る。
「早く片付けて寝て、いいよ」同じようにボソッと言う。
「貴方の指示は何なのよ。その命令調は。自分の食べた物ぐらいは片付けてよ。偉そうに言わないでください。嫁の絵里子さんなら言葉のDVと言われるわよ」久枝はついに、大声を出した。疲れていた。孫のためとは言え無理をした。首から肩にかけて動かす方向で何とも言えない重さと何処からか這い上がる鈍いしびれを感じていた。
 浩一は黙って席を立ち、食器を流し台に運んだ。
「ちゃ、え、チャン。これは、ここに置いておくの」と久枝の食べた食器類をそのままにして,残してある佃煮を片付けようとしている。
「何よ。自分だけの食器を片付けて。佃煮は置いておく決めた場所があるの。貴方は冷蔵庫を開ける時間も長いし、整理してくれるのはありがたいけれど、使いたい食材が無くなっていたりするから探すのが大変なのよ。それに、ちゃえ、チャンって何!盗み聞きした、のね」
「うちの冷蔵庫は腐らせ庫だからね。僕が整理しないとカビだらけだ。ほら、これは食べるの?」と歌うように言いながら久枝に見せる。
「それは、捨てるの。あのね。貴方、粗大ごみって言っていたでしょ。あれは私の事でしょ。影に隠れて言わないで私に正面きって言ったら、どうなのよ」
「私は何も言っておりません!」浩一はおどけて手を横に広げて肩を上げた。おまけに歌舞伎役者の様に目を剥いて言う。
「フン!私が粗大ごみなら貴方は、ボロ雑巾よ。吊り下げられたまま渇いて固まり、落ちてそのまま床に突っ立っているボロボロ、のボロ雑巾」と言いながら頭痛が酷くなってきた。涙をにじませながら言う久枝に
「もう、寝ろ!うるさい!」浩一も声を荒らげた。

 明け方近くだった。昨夜からの雨雲がいったんは東北に抜けたが、さらに低気圧を連れて関東地方に近づいていた。雲の流れも速い。突風が時々吹き付け、庭木の伸びてきた小枝と黄緑の葉をガサガサと揺さぶり、長い枝が大きく軋む音と重なっていた。

久枝はベッドの中で声が出ずに口をパクパクさせていた。その声が動物のようなうめき声になっていた。
 久枝は海にいる。大波に押され浜辺に押し上げられる。押し上げられた場所で這い上がろうと砂を握り、爪を立てる。膝をおり、四つん這いになり起き上がろうとする。その途端、覆いかぶさって来た次の波が、強烈な勢いて足元の力を奪い身体ごと久枝を連れて沖に引いていく。久枝の身体も足も海の中に引き戻される。犬カキの様に手足をバタバタするが、波と共に身体も木の葉の様に渦巻きグルグル回りながら沈みこんでいく。落ちていく。周りに娘の香苗の筆箱やバレエシューズ、チュチュが回っている。チュチュはバレエの発表会の時、久枝が縫ったものだ。苦しい。息が出来ない。手を空に向けて助けて!と叫ぶ。潮の流れが渦を巻き又、久枝の身体は海上に押し上げられる。後方は真っ黒な漆喰の闇夜だ。前方の空は黒い雲が伸びきったイカの様に流れ、頭の長い吸盤があちこちに絡むように澱んだ白い空と濃淡を作っている。真綿をのばした様な厚さの曇の間からの光が、地平線はここですと主張している。大波が後ろからうねり、また、巻き込むように久枝の身体を強烈な力で砂浜の方に押し上げていく。押し上げられた波打ち際で今だ!と思いながら這い上がろうとすると、次の大波が久枝の身体をまた、海中に巻き込みながら引いて行く。
 その様子を香苗が、久枝の母のお祖母ちゃんと一緒に俯瞰している。久枝は、私は何処にいるのだろうと思う。ここはハワイだ。でも少し違う、伊豆大島の沖?と夢の中で感じている。砂浜に綺麗なドレスを身に纏い、おいで、おいでと、手を振り腰も振っている綺麗な若い娘が微笑んでいる。久枝は次の大波が来たらサーフ・ボードに乗って大波のトンネルを抜けるのだ。と鼻息を上げる。だが、その大波はなかなか来ない。呼吸が出来ない。助けてとまた、空に手を伸ばす。久枝の母が少女のころの香苗と一緒に空から手を差し伸べる。香苗が困ったような微笑みを浮かべている。香苗・・・と呼んだ。すると「お母さん助けて。お母さん何処にいるの」と言う。「何処にいるのって、ここヨ」としゃべろうとしたが、声も出ない。
呻き声が、押し出すように久枝の寝室から漏れた。

「おい、久枝。久枝。どうした」浩一に声を掛けられた。
浩一は息子の宏が就職して出て行ってしまった隣の部屋の寝室で、久枝の唸り声で目が覚めたようだった。
「あっ!誰!」
「誰って、他にいるのかい」浩一は不愉快そうに言った。
「アー、アー、私・・・ ・・・ 有難う。助けてくれて。海に居たのよ」
「なにを婆さん言っているのだか、朝から疲れる話だ」浩一はぶつぶつ言いながら自分のベッドに戻って行った。
 久枝は夢を見ていたことに気づいた。首のあたりがじっとりと汗ばみ、おでこにも髪がへばり付いていた。背中も汗ばんだように湿っぽい。脂汗だった。
久枝は覚醒して、身体を起こそうとした。途端に激痛が走った。肩が痛い。首が回らない。どうしたのだろうと思うと心臓が徐々に波打っていく。起きられるのだろうか、とベッドから足を下し立ち上がろうとした。すると、首が重い。下を向くと眩暈がした。無理に力を入れようとベッドに手をついた。今度は思わず悲鳴が出た。
「ヒッ、肩が痛い。貴方、ねぇ肩が痛い」左手で手首をそっと持ち、上げようとした。少し
肩は上がった。だが、二の腕は下がったまま肘は折り曲がるが二の腕が上がらないので久枝
の口元までは届かない。力が入らない。ダランとしたまま、腰の辺りでやっと肘は床と平行
になり九十度までは曲がる。
「あれっ、歯磨きも顔も洗えない。どうしよう。どうしよう。本当にどうしよう、巾着十個の刺繡。痛みが何処なのかも判らない。首も回らない。どうしよう。ねぇ!起こしてよ。私、起きないと」
「朝からぐちゃぐちゃうるさいなぁ、婆さんぼけたのか?ほらほら、人の事ボロ雑巾なんて言うから、自分が、すか、すか、の骨になったんだよ。それに起きているじゃないか」と浩一は呆れたように言う。
「・・・・・・お願いです。着替えたいです。服を着たいです。それからタクシーを呼んでください。病院に行きます」久枝の目許から涙が足下に落ちた。

 タクシーで乗り付けた菊名駅のすぐ近くの医療ビルの中の四階の整形外科で、診察を待ちながら、久枝は自分の身体がどうなるのか不安だった。さらに長い時間座っていられない事が解った。下を向くと頭痛が酷くなった。気持ちも悪い。行儀が悪いが待合室の椅子の背もたれに首を載せるように腰をずらした。
「如何しよう、巾着に付ける名前の刺繍。二、三日で、治るかしら。でも、この肩ではとても無理だ。この首の重さは以前に起きた事と同じだ。変形しているのだ。下を向き続けて根を詰めたせいで疲れたのだ。これでは何もできない、ミシン刺繍はとても無理だ。修に早く連絡しなければ。でも、どうしたら良いのだろうか。せっかく巾着は出来上がっているのに。それに、名前を入れることになった。でも、たかが、ミシン刺繍だ。そうだ、もしかしたら絵里子さんでもできる。私が側に付いて教えよう。後はミシンがやってくれるだろう。あゝ、気持ちが悪い。横になりたい。肩に感覚がない。」

「杉本さん、診察室におはいりください」診察室から待合室に呼び出しの声が聞こえた。
看護師が座っている患者を目で追いながら「杉本さん」と小さく声を掛けている。眼があった久枝は軽く左手を上げた。歩み寄った看護師が「立てますか」と声をかける。久枝は軽く首と顔を横に振る。するとまた、首に痛みが走り顔も歪んだ。看護師が「失礼しますよ」と腰に手を廻し、側のあった車椅子に久枝を載せた。
症状と原因となる経緯を聞いた医者がレントゲンの指示を出した。検査技師のお兄さんが「お一人ですか?」と聞く。黙って頭を少し下げた久枝に「生活の自立が今は難しそうですね」という。
X線検査を待つ間、久枝の心は暗く閉ざされていく。
「今朝も動けない私を浩一は優しく扱ってくれなかった。タクシーを待っている間に雨が上がった空を仰ぎ見て、縁側を指さして、ここはもう腰かけたら壊れるね。と言う。おまけに近いから送ろうかと言う。粗大ごみを運ぶカートを指さしていた。浩一は自分が歩く事もおぼつかないのにカートなんて押せない。その上、カートでゴミではなく私を運ぶなんて、なんという事かしら、本当に悲しい。でも、こうして一人ですかと聞かれたら浩一が頼り。私がいない間どうしているかしら。心配しているかな。ご飯は食べたかしら。浩一の壊れ方を見ていると私の方がまだ、動ける。高齢になってからの三歳の年の差は大きい。頑張らなくちゃ。子供達に迷惑はかけたくない。それよりも香苗はどうしているのだろう?イギリスで元気にしているのだろうか。今朝の夢の中に確かにいた。あれっ、お祖母ちゃんと一緒にいたみたいだ。なんでかしら。と言う事は・・・香苗は生きているのかしら。まさか、生きているに決まっている。お祖母ちゃんが死んで何年になるのだろう。香苗からは連絡が暫く来ていない。」あれこれと浮かんでは飛んでいく思考が、見えない、聞こえない、リアルな娘の姿を求めていた。

「杉本さん、首のX線ではそんなに悪くなっていない。以前のこちらが写真です。S字のカーブは杉本さんの場合少し伸びていて綺麗ではないのですが、変化はありません。少し物理療法で引っ張ってみましょう。後、この肩ですが、今日は痛み止めと栄養剤を肩に注射します。今夕には歯磨きできるぐらいの高さまで上がるはずです。力も入るはずです。まあ、無理して歯磨きや洗顔しないで身体を少し休ませてください。ミシンを一日中かけていらしたと言う事でしたが、お好きな事は判りますが、根を詰めないでくださいね。明日又、診察とリハビリに来てください」
「解りました、有難うございます」と挨拶をする久枝にほんの少しだけ医師は笑みをみせた。回転椅子に座っていた医師は看護師が注射を用意している間も次の患者の待つ診察室に
移動していった。その溌剌とした言動と動きが、久枝の中で若かりし頃の浩一と重なる。
医者の背中に向けて久枝は歳を重ねていく機能の衰えや辛さ、無情の寂しさは解らない。と投げかけた。足漕ぎで移動するから背中にお肉が付いているのよ。と心の中で呟いた。
「少しチクッとしますよ。」
「イテテテててて、て」
「そんなに痛いかな。もう少し我慢、我慢、はい、終りましたよ」緊張して固まり、だんだん小さくなる久枝に若い看護師が
「今日はお風呂には入らないでくださいね。お風呂は雑菌も多いので」と言う。
「肩を三角布で吊りますか、これだけの骨がブラ下がっていますからね。吊ると楽ですよ」
「でも、首が痛いから。無理です」
「そうですか。じゃあ、おやめになりますね。帰れますか。受付でタクシーを呼べますよ。
お大事に」
医師の言葉に少し安堵した久枝は、若い化粧の濃い看護師に何か冷たさを感じた。同じような歳だろうか、絵里子の顔が浮かんだ。
 そうだ、絵里子だ。絵里子に連絡しなくては。可愛いい孫の修ちゃんが可哀そうなことになる。所詮他人のお母さんが育てたのだ。絵里子の母親の顔も浮かんだ。どのように言おうか、絵里子に。感情が解らない。何を考えているのか。私をどう思っているのか。困ったな。拗れたりしたら困る。せっかく宏の家族を大切にしてきたのに。宏のために気を使ってきたのに。これから先の私たちの問題もある。どんな老後が待っているのかは誰にも分からない。とりあえず、娘の香苗にも帰ったら国際電話しようFacetimeとやらで、つなげてみよう。イギリスでもこの、アイ・フォンならできるはず。ラインでもできるはず。渚ちゃんに教えてもらおう。ぶつぶつと泡立つ想いと共に、待合室に迎えに来たタクシーの運転手さんと共にとぼとぼ歩きながら、病院を後にした。歩くのもつらい。やっとこさっと、乗ったタクシーは、息を整える間もなく家に着いた。

 家に帰ると浩一がいなかった。ふと玄関に覆い被さる花水木を見上げると葉っぱが丸くなり、小さく縮れている。花も昨夜の嵐で落ちてしまい、わずかに残っている花も腐った桃のような黄土色だ。じっと眺めていると毛虫が付いている。アブラムシがブツブツと密集して葉が丸まっているようだ。今年も消毒の季節がやって来た。誰がしてくれるのかとじっと眺めていると声を掛けられた。
「奥さん、杉本さん」となりの家の奥さんが不機嫌そうに眉に力が入った顔を久枝に向けていた。
「あらっ、今日は。よく降りましたね」
「杉本さんの所の毛虫が塀を伝わって家のツバキに付いているの」
「えっ、うちの毛虫が」
「そうヨ、だから今パパが、消毒薬を買いに行っているのだけど」
「解りました。塀の場所にかかっている木は切りますね。全部短くしますね」
「宜しく、ね」絵里子と同じ歳ぐらいの奥さんはクルリと背中を久枝に向けて、自分の家のドアをバタンと閉めた。
その様子を玄関の角で聞いていた浩一が
「お帰り、肩は如何した。上がる様になったのか」と聞く。
「貴方、どこに行っていたの」
「散歩さ、少し腰が痛むので歩いて来た」
「ねぇ、聞いていたでしょ。うちの毛虫だって。椿の方が毛虫の出番が多いのに」
「なんだかね。いちゃもんかな。隣のご主人に会ったら毛虫に名札を付けましたと言っておくよ」久枝は開いた口が塞がらない。もっとこの人は壊れている。と思った。

一休みをしたかった。だが、香苗の事が頭から離れない。気になっている巾着の件では、絵里子に相談するしかない。優先順位は極楽とんぼの絵里子だ。寝室に入り絵里子の携帯に電話を入れた。
呼び出し音はするが、出ない。暫くしてから掛け直そうと思ったが、修の顔が浮かび由美子の顔が浮かんだ。躊躇ったが早く連絡して今の状況を何とかしたいと願い、続けて電話を掛けた。三度目のコール音の後、絵里子の携帯は留守電に切り替わった。一瞬、久枝は戸惑った。が、
「絵里子さん、急な事ですが貴女に修の事で、大切な用事があります。連絡をお願いします」と入れた。

 寝室で横になった久枝は携帯を握りしめていた。絵里子は刺繍が出来るだろうか。電話は何時来るのだろうか。刺繍はミシンがやるのだ。私が教えたらできる。と考えが空回りする。深い吐息を出した。少し、落ち着く。肩からまた、痛みを感じる。慌ててそっと左手で右手を胸の場所に置いた。少し肩を上げてみた。今朝よりは上がる。が、万有引力に負けて重さだけを感じた。浩一は居間にいるようだ。また、マッサージチェアに座り、寝ているのだろうか。お腹もすいて来た。浩一は何か食べたのだろうか。
天井のクロスの沁みを見つめていると脳裏に出入りする香苗がいた。何故か悲しそうだ。香苗と小さくまた、呼んでみた。心配が増幅していく。安否を確かめなければと携帯を眺めた。
香苗の夫のギルバート・ジャックの片言の日本語が頭の中で聞こえる。香苗、香苗と、たどたどしく呼んでいる。今朝の夢が思い出された。何かが起きている。母親の直感が心臓の鼓動を早めた。落ち着こうと考え、絵理子と修の事をまた、想った。すると、由美子の顔と大西と言う苗字に引っかかる人がいた。
 寝室の窓側の壁に駆けられた油絵を見た。久枝の上司が書いた油絵だ。「縁のある人は何処かで、何かで繋がっている」と言っていた久枝の母親の言葉を思い出した。
 階下で固定の電話が鳴っていた。起き上がり、手を挙げてみた。肩の痛みが軽減している
 久枝は、絵理子さんだろうと思うと少し心が和らいだ。「相談しなければ」携帯を持った右手が胸の前で左手と重なった。
「誰かが側に付いていてくれればミシン刺繍は明日から少しは、出来そうだ」久枝は階段の手すりを右手で握り、確実に一歩ずつゆっくり階段を降りた
 浩一の声が聞こえた。
「香苗、香苗。久しぶりだな。元気か」香苗からの電話だった。