
登場人物
大西由美子
ギルバート香苗
杉本絵里子
杉本 修
沢野夜空
沢野星也
その絵は、真っ暗な夜空と星々、小さな満月が高く輝き、遠くの岩山と広大な荒れ地を照らしている。8号の小さな油絵は、由美子の曾祖父が出張で行くことの多かったカタールの風景を描いたものだ。絵はこの部屋が由美子のものになるずっと前からこの部屋を飾っていた。
曾祖父が自宅を取り壊してこのマンションに建て替えたのは、早逝した息子の妻と孫娘の生活が自分が死んだ後も成り立つようにするためだった。築後40年になるが、3階建て10家族用の賃貸マンションは十分にその役割を果たし、曾孫となる由美子の代までもその恩恵を与えている。
大西家は代々の陸軍の家系だったが、曾祖父は終戦後商社勤めを経て石油会社に移籍した。もっとも由美子が生まれる20年以前に曾祖父は亡くなっているので、曾祖父の面影はアルバムによるしかない。33歳で亡くなった祖父の写真はさらに古く、父は小学3年生の時に母と別れて以来一度も会っていない。由美子は男っ気の薄い家庭で育った。曾祖父は、祖母、母、由美子の女ばかり3人の家族にとって今でも一番頼れる男だった。
油絵は、曾祖父が石油会社に移籍してから始めた趣味であり、マンション一階の自宅の玄関、廊下、各部屋に飾られている。絵の題材はすべてカタールの風景である。オレンジ色の砂漠と真っ青な空。白いモスクや日干煉瓦の建物。石油掘削のための巨大な馬の首のような機械。油井の有毒ガスを燃やすための煙突群。そしてペルシャ湾に浮かぶタンカー。どの風景も索漠としたものだが、曾祖父の筆使いにはどれも愛おしさが込められている。
由美子は、曾祖父の夜空の絵を見ているうちに伊香保の夜を思い出していた。夜遅い石段街は人通りも少なかったし、子供に会わせる顔がないと言っていた居酒屋の女将の身の上話を聞いたせいで人恋しい気分になっていた。年下の男に甘えて泣いたりなんかして、芝居でもしているようにロマンチックだった。そして、修の胸が緊張してドキドキ鳴っているのがおかしくなって、その顔を見上げてから階段街を振り返った時、空には星があんなにあったんだと驚かされた。あの時はあんなに楽しかったのに、その後の1ヶ月間は手のひらを返したように不愉快なことばかりが続いた。
伊香保以来ぱたりと修がクラブに来なくなった。キャンパスを歩いているのを一度見かけたことがある。由美子は声をかけようと思ったのだが、修は気づいているはずなのにさっと向きを変えて人の群にまぎれてしまった。何となくだが、修からだけでなくクラブの他のメンバーからも避けられているような気配があった。夏休み前の前期定期試験の時期なので、みんなが忙しいのは分かるし、クラブが二の次になる。それは由美子だっておなじなのだが。
10日ほど経ったとき、一度クラブの部長から妙な電話がかかってきた。いつもはメールなのに、いきなりの電話だった。
「学生課から呼び出しがあって杉本が脅迫されたと言っているらしいが何かしらないか」
「知らない。というか、このごろ顔を見てないんでどうしているかと思っていたところ」
「伊香保で何かなかったかい?」
「うーん、6人の予定だったのが、田村先輩と先輩の彼女の麻里さん、杉本君と私の4人になったくらいで、伊香保に泊まった後は、おもちゃと 人形自動車博物館を見学して帰ってきただけで特には何もなかったと思うんだけど」
あるとすれば、同行した田村先輩と麻里さんが同室になりたいと言い出したことだ。結果として由美子と修が同室になったくらいだが、余計にややこしくなることは目に見えていたので由美子は口をつぐんだ。
「じゃあ田村先輩にも聞いてみようかな」と部長が言う。
「代わりに聞いてみましょうか?」
「いやいいよ。俺が聞く」
「じゃあ、杉本君に聞いてみましょうか?」
ため息が聞こえた。しばし時間をおいてから部長の声がした。
「大西が電話するのは止めた方がいいな。俺が聞くから」
部長の電話が切れた。
由美子は部長の言い方にひっかかりを感じた。部長は学生課から何かを言われて調べているんじゃないだろうか。そうでなきゃいつもは何もしない部長が自分で動き回る訳はないと考えた。そして、それ以来部長からの連絡はないのだ。
7月27日が由美子の前期試験の最終日だった。試験から解放され夏休みに突入するので、仲のいい英文科の友人と渋谷にお茶に行った。気の置けない友人だったので何でも由美子に話す。その友人から注意をされたのだ。
「由美子さあ、知り合いの子で『フィギュア愛』の彼氏がいる子がいてね。由美子のことで変な噂が立っているらしいよ。私は由美子のことをよく知っているから信じられないんだけど、由美子が2年生の男の子を誘惑して肉体関係をもったので、怒った由美子の彼氏がその男の子を脅迫したとかいう話。由美子、知ってる?」
「まさか!第一、そんな彼氏いないし」
「そうだよね。由美子、お堅いし、ありえない話だよね。でも、2年生の男の子の方はありえるのかな。どう?」
友人はそう言ってけらけら笑う。
「馬鹿をいわないでよ。そう言えば、なんだかこのごろクラブの雰囲気が悪かったのはそのせいなのかな」
「その男の子、休学するとか海外留学するとか言ってるらしい」
「えっ! どうして」
「由美子の彼氏がよっぽど怖いんじゃない?」
「だから、いないと言ってるじゃない」
「そうよね。なぜかな。由美子、何かひどいことをしなかった? その男の子のプライドをズタズタにするようなこと」
「もういい加減にしてよ。私をからかって何がおもしろいの。ちょと酷くない?」
由美子は自分の顔がぱっと赤くなるのを感じた。胸が高鳴った。
友人は、由美子が本気で怒ったのに驚いたようだった。
「私はそんな噂、信じていないのよ」友人は由美子の目を真正面から見つめて言った。「でも、知り合いの子の話では『フィギュア愛』の中でそんな噂があるらしいの」
夏休みに入って、由美子は自分の部屋にこもっていた。自分の知らないところで何かが動き回っている。クラブだけでなく、学生課を含めたもっと大きな学校という範囲まで広がっている。留学生に日本的なお土産を探していて、修が持っていた巾着に目を付けたのは由美子だった。巾着を作っているのが修のお祖母さんの久枝と知って菊名の自宅までおじゃまして交渉したのも由美子だった。それで知り合いになったお祖父さんの浩一。その優しく素敵な二人の耳にも、自分の悪い噂が入っているのだろうと思うと由美子は残念でならなかった。噂は払拭しなければならなかった。
部長には止められた修への電話を何度も試みたが、電話は電源から切られていた。メールも打ったが、それとて修は見ていないだろう。
修がなぜあんな嘘をついているのだろう。その嘘の果てがなぜ休学や外国留学ということまでなるのか。そして、その原因がなぜ自分なのか。しかし、由美子が耳にしていることは噂に過ぎない。修に直接聞いてみないことには疑問は解けない。連絡を取ろうとしない修に由美子は怒りを感じた。
修の住所はクラブの名簿があるので分かるが、電話連絡もメールもだめだとなれば、おそらく手紙を送っても無視されるだろう。それならば、直接行ってドアのチャイムを鳴らすという手はある。それでも門前払いをされる可能性があるし、何よりもストーカーのようなあさましい行為は由美子のプライドが許さなかった。
菊名を訪ねて、修に会わせてもらうことをお願いすることはできるかもしれないと由美子は考えた。しかし、二人は修の味方をしなければならない。自分の願いがそんな二人を困らせることになるかもしれないと思うと躊躇する。
もう一つは、巾着のレンタルボックスの店のつてをたどることだ。いつだったか東神奈川の駅からすぐそばの店だということを修が言っていた。巾着だけ扱っているレンタルボックスなど他にないだろうし、簡単に見つかるだろうと由美子は踏んだ。そして、連絡先を聞くことはできるのではないかと。ネットで調べると簡単にそれらしき店は見つかった。電話で店長に聞いてみた。すると確かに巾着専門のボックスはあるが、オーナーの電話番号は個人情報になるので教えられないという。連絡手段はないかと重ねて聞いてみたら、注文ポストがあって、そこにメモを入れたらいいと言われた。だが、それだと手紙を送るのと何らかわらない。
由美子が望んでいるのは修と直に会うことなのだが、どの方法をとっても確実とはいえず、カタールの夜空の絵と向き合ったままの日々をまた何日か費やしてしまった。このままでは由美子自身が外の世界に出られない人間になってしまいそうだった。
由美子はとにかく行動することを決心した。家を出て向かった先は東神奈川のレンタルボックスの店だった。スーパーの建物の一角にあるその店は、小さなプラスチックのボックスが沢山積まれていた。その一つ一つが個性豊かなショップになっている。手作りの手芸製品が可愛く小さく並べてある。それらは、ボックスをのぞく人に「私を買って。私を買って」と声を上げているようにさえ見える。購買層はスーパーの買い物ついでの主婦のようだ。由美子はボックスを見てまわっていた。しかし、何度見ても巾着のボックスが無いのだ。由美子がきょろきょろ見回していると、中年とおぼしき女性が店の中でぼんやり立っている姿がいやでも気になった。やせた体型をしていて化粧っ気がなくてあどけない表情をしている。それだけの特徴ならば、目立つことはないのだが、頭にヘッドホンをのせている。あの女性はここで何をしているのだろうと訝りながら、由美子は会計カウンターに立っている四十代とおぼしき男性に聞いてみた。その男が店長だった。
「もしかしたら、お客さん、数日前に電話をいただいた方ですか?」
店長は、由美子のことを覚えていたらしい。
「ええ」と由美子。
「品物も見ずにオーナーさんに電話したいなんて珍しいなあと思って覚えていたんですよ」
「それで伺ったんですが、どのボックスか分からなくてお尋ねしようと思っていたところでした」
「そうなんですよ。せっかく来ていただいたのに申し訳ないんですが、事情があってオーナーさんから供給が止まっているのです」
由美子は胸が塞がれるような気がした。修のことで巾着ビジネスもストップしたのだろうか。
「それじゃあ、仕事は止めたんですか?」
店長は、首をひねった。カウンターから出てきて「どうぞこちらへ」と先に立って案内した。そして、空っぽのボックスを手で示した。すると、先ほどぼんやり立っていた中年の女性がすっと近づいてきて、ヘッドホンを片耳だけ外したのだ。店長は、女性に対して目だけでお辞儀をした。店長と女性はなじみのようだった。
「これが契約いただいているボックスでご覧のとおり空なのですが、実は注文ボックスにはご注文が何枚も来ているのです。こちらのお客様もそのおひとりなんです」
店長はそう言って、由美子に向けていた視線を女性の方へ向けた。そして、今度は女性に向かって子供を諭すような口調でしゃべりはじめた。
「巾着を実際に作っていたお婆ちゃまが入院されたようです。当面作れないと言っていました。ですからご注文いただいても巾着はありません。分かっていただけますか。巾着はありません」
女性は大きな目をさらに大きくして店長の顔をのぞき込んだ。
「久枝さん、病気ですか?」と女性。
「この間、会ったばかりなのに」と由美子が言った。
今度は店長が驚いた。
「お二人は作者とお知り合いですか?」
由美子と女性は互いに横目でちらちら相手をうかがって、店長に対してうなずいた。
「そうですか。オーナーはご長男のお嫁さんのようでね」
由美子はそこで店長に食い下がった。
「ですから、オーナーの方の電話番号が知りたいのです」
店長は、額にしわを寄せて困惑していたが、出てきた答えは同じだった。
「個人情報ですので無理です。すみません」
店長は頭を下げてカウンターに戻って行った。
由美子は女性の方に向き直って聞いてみた。
「突然ですみません。オーナーの家に電話をしたいのですが、電話番号を知らなくて困っているんです。知っていたら教えていただきたいんですが」
女性はとても困った表情でおどおどしていた。視線をあちこちに向けて由美子に何かを伝えようとしているらしいのだがそれをどう伝たらいいのかが分からないらしい。そして、横目で由美子をちらっと見ると、外していた片方のヘッドホンを耳に戻して背中を見せて去って行った。
由美子は菊名駅に降り立った。
久枝が入院したとなれば、浩一だけの暮らしになっている筈。浩一の体だって思うようにきかないのだから不自由な生活になっているだろうと思った。はじめて浩一と会ったとき駅前の店で餃子を買っていた記憶があったが、もしも不在の場合を考えると、八月の真昼のお土産にすることはできない。由美子は、駅に併設している東急ストアで探した。気持ちにぴったりするものがないので仕方なく贈答用の梨のゼリーの詰め合わせを選び包んでもらった。それに、自分のお昼用にとサンドイッチを買った。
駅の階段に行列ができていた。階段を下りた先のバス停まで続いている。駅前の道が狭いせいでもあるが、日向の日差しを避けるための行列であった。通りに出た途端、風景が白くなるほどの太陽の光だった。由美子は日傘を開き、道を横切った。そして飲食店が並んだ路地に入った。ひっそりしている。どの店も眠ったようだ。ドアを半開きにしているスナックがある。掃除の最中なのだろう。小さなカーペットが店の前の看板にひっかけて干してある。その先の焼鳥屋は引き戸が閉まっていたが、内からまな板で包丁を使うリズミカルな音が聞こえていた。修が初めて一人のみをしたのが駅前の焼鳥屋だったと言っていたのを思い出した。もしかしたらこの店かなと思いながらガラスの引き戸のところでちょっと佇むと、包丁の音のリズムが変わったので、由美子はあわてて店から離れた。
路地を抜けると往来の激しい街道になる。由美子は、強烈な日差しを日傘で遮りながら蓮勝寺までの道をゆっくり歩いて行った。蓮勝寺境内は緑が多い。静かである。正面の階段を上ったところにベンチがあった。でもそこは日差しを遮るものがない。由美子は、寺院の庇が作る大きな影の中にちょうどいい大きさの石組みを見つけた。畳んだ日傘を脇において、さっき買ったサンドイッチをほおばった。ハンカチで首に浮かんだ汗を押さえる。暑いながらも緑陰を吹く微風は心地よい。それが由美子に再び立ち上がって前に進む勇気を与えてくれた。
蓮勝寺を出てしばらく行くと、小林酒店があった。いつも立ち寄るところだと浩一が教えてくれた店だ。店前に大型トラックが止まっている。街道を通る車のじゃまになっている。トラックの尾灯がハザードになっているので一時停車らしい。由美子がトラックの後部でどのようにして前に行こうかと行き悩んでいると、店から慌てて出てきた元気のいい女性が「すみませんねえ。すぐ出ますので」と言ってトラックの助手席に乗り込んでいった。
トラックはひとかたまりの排気ガスを残して発進して行った。由美子は酒店の建物近くに寄って排ガスを避けたが、手を口に当てて顔をしかめた。店先でトラックを見送っていた青年が、由美子の方を向いて頭をかいた。
「申し訳ないです。さっきのトラック、うちの親父とお袋なんです」
由美子は、この青年はどうして見ず知らずの通行人である自分にこうも気さくに話しかけられるのだろうかと訝った。
「長距離トラックでの旧婚旅行だそうですよ。暢気なもんですよね」
青年は笑いながらそう言うと「それじゃどうも」と会釈して店の中に入って行ってしまった。
何気ない会話だったが、青年の商売人らしい愛想の良さ、その飾らない人柄に、由美子は感じ入るものがあった。青年が入っていった店の中を覗いてみると、奥の方で若い女性と親しげに立ち話をしていた。奥さんだろうと直感した。これまでの人生で知らなかった和やかさがここにはあると思った。由美子はこんな何気ないことにひどく感動している自分に驚いた。引きこもっていたので心が感じやすくなっているのだろうと思った。
しばらく行ってから左に曲がって右に曲がると、いよいよ浩一の家が見えてきた。自分に突きつけられる現実が一歩ごとに大きくなっていくようだった。門を入って呼び鈴を押した。浩一の動きなら玄関まで来るのにも時間がかかると思い、由美子は目をつむり、自分の深呼吸の音を聞いていた。ところが、玄関のドアは意外な早さで開いた。そして、そこに立っていたのは見知らぬ女性だった。
由美子は一瞬、修のお母さんかなと思った。年格好がそうだったからだ。先方も若い女の訪問が意外だったらしく、疑問符だらけの目で見つめていた。
「はじめまして、あのう、私は大西由美子と申します。青嶺大学の三年生で、杉本えーと、さんとは同じクラブの者です」
由美子はがちがちに緊張した挨拶をした。
女性は、由美子の顔をじっと見つめながら思い出したように言った。
「じゃー、修と一緒の、あのむちむちしたフィギュアが好きな人たちのクラブの人ね。私、香苗です。修の叔母です」
由美子は驚いた。叔母はイギリスに住んでいると修から聞いていたからだ。
「イギリスから帰って来られたんですか?」
「両親が二人とも入院だからね」
「えっ、二人とも、ですか」
「まあ、こんなところで話してもしょうがないので、どーぞ中にお入りになってください」
香苗の日本語はきれいなのだが、発音に英語なまりが残っていた。
茶の間には簾がおろされていた。
「ここはサンルームみたいなところだしクーラーの効きも悪いけど、私の好きな部屋なの。この古い竹のカーテンも風情があるでしょ」
由美子が手みやげを差し出すと、香苗は三つ指をついてお辞儀した。
「ありがとうございます。前にもいらしたことがあるんですね」
「はい、何度か。お母様にお願いして巾着を作っていただきました。実は留学生との交流会のプレゼントとして作っていただいたのです。とても喜んでもらえました。可愛いいポシェットだと。純日本風ですしね。」
香苗が隣のキッチンから冷えたお茶を運んできた。
「ところで、入院なさったのはお二人なんですね。先月お会いしたばかりでしたが」と由美子が尋ねた。
「父は夕方に散歩するのが日課だったんですが、その日に限って朝の涼しい内に出かけたんだそうです。その上、いつもよりきつい坂に挑んだようで、坂の途中で倒れたのを見ていた人がいて、すぐに救急車を呼んでくれたんです。それで、助かったんですよ。数年前に同じ坂で倒れた人がいたそうで、その方は入院して1週間で亡くなったとか。父の場合は軽症だったのでラッキーでした。父は退院を希望しているんですが、まだもう少し入っていてもらうつもりです。母のこともありますのでね」
「お母様は、巾着作りで無理をして体調を崩されていたので、私、申し訳なくて」
「あなたが責任を感じることは何もないのよ。母は、それで生き生きしていたようだし、あなたのような若い人とも知り合いになれて喜んでいたのだから。それに母の大腸ガンは健康診断でたまたまひっかかって分かった初期のものだったので、術後の経過も良好よ。心配しないで」
「それは良かったです。じゃあ、お二人が退院したら、またイギリスに戻られるのですね」
「それはまた別の事情があるので、決めていないわ」
「実は私英文科なんです。来年が4年なのでちょっと進路に悩んでいまして相談できる人を捜していたんです」
「私に進路相談するのは間違っているかも。いろいろ失敗してきたから。でもね失敗が後で考えると失敗じゃなかった、悪いことが悪いことじゃなかったなんてことはざらにあることだから、くよくよしないことね。私にとって、今回の両親の入院はいいことじゃなかった。当然よね。海外にいる私はすぐに動けないから。修のお母さんの絵里子さんから『私が世話をするから心配しないで』と言われたときは、内心助かったと思ったのよ。でも、そう思ってしまう自分が嫌だったの。だから、全部振り捨てて帰ってきた。帰ってきたら、長い間意固地になって反発していた母が泣いて喜んでくれるのよ。大学を卒業して以来ほとんど日本に帰って来なかったんだから本当に親不孝よね。私はこの歳になってやっと母がかけがえのない人だっていうことが分かったの。こんな私に進路相談なんて、とんでもないわ」
香苗は涙の滲んだ醒めた目で由美子を見つめた。そして無表情のまま立ち上がって奥の部屋へ行ってしまった。
由美子は自分が失言したのかとも思った。1分経っても2分経っても香苗は帰ってこない。多分香苗は泣いているのだ。それを人に見せたくないのだろう。由美子はそう思った。
取り残された由美子は、香苗が座っていた場所の横に一冊の本が置いてあるのに気がついた。香苗の読みさしかと思った。立派な装丁の本で『私の労働組合史』とある。手にとって、表紙をめくってみて浩一が書いたものと分かった。好奇心から頁をめくってみると、聞いたことのある石油会社の名前があった。そして、そこに曾祖父の名前を見つけた時は思わず唾を飲み込んだ。曾祖父は浩一が勤めていた会社の常務取締役だったようだ。夢中で頁をめくっていると香苗が戻ってきたので、由美子は慌てて本を戻した。
「すみません。勝手に本を見たりして」
由美子はぺこりと頭を下げた。そして、言葉を継いだ。
「もし、できることでしたらこの本を貸していただけないでしょうか? 拝見していたら、私の曾祖父の名前があったのです。祖母や母にぜひ見せてやりたいのです。どんなに喜ぶか分かりません。お願いします」
由美子は頭を下げたままだ。
香苗は横座りになって、本を取り上げた。そして、小首を傾げて由美子を見上げた。
「ほんとう?」
「ええ」
「この本を読みたいなんて人が現れるとは信じられない。この本は母からも私からも大顰蹙をかっていたものよ。この本だったら差し上げるわよ。まだ父の押入に在庫がいっぱいあるから。ちょっと待っていてね」
香苗が奥から戻ってきたときには薄紙にくるまれたままの本を携えていた。
「うちの父も喜ぶわね。こんなきれいなお嬢さんに読んでもらえるなんて。しかもご縁があるなんて」
「私も嬉しいです。私はお父様のファンですから」
二人はひとしきり笑った。
「でも」と、香苗が思い出したように言った。「何だかすっかり打ち解けちゃったけど、あなた、肝心のことを言っていないわよね。父か母にただお土産を持って会いに来た訳じゃないでしょ?」
「はい。実は杉本君に連絡が取れなくて困っているんです。私には、杉本君に直に会って聞かなければならないことがあるのです。それで会えるような機会を作ってもらいたくて来ました」
由美子は、伊香保の研修旅行以降に自分に降りかかった噂を香苗に説明した。修が私の彼氏という人に「俺の女に手を出すな」と脅かされたらしいこと。そのため修が休学するとか海外留学するとかの話になり事件が大きくなっていること。学生課ではクラブの部長を通じて調べているらしいこと。その調査過程で噂は尾鰭をつけて広がっていて、このままではクラブをやめなければならないだろうし、学校での友人関係にも罅が入りそうなこと。何より腹立たしいのは、私にそんな彼氏などいなく、そんな根も葉もない噂が事実として動いていることだと言った。
「分かったわ。私はあなたの言うことを信じる」香苗はきっぱりと言い放った。「でも、修が嘘をつくとも思えないし、あなたの言うとおり、修に詳しく聞いてみるしか無いわね。ちなみに留学の話は無くなったから安心して。世話するはずだった私がこっちに来ちゃったもの」
香苗がスマホで番号を押し始めた。そして耳に当てると、由美子に言った。
「いい? これから片倉町に行くからね」
「これからですか?」
「私が連れて行ってあげる」
電話が通じたようだった。
「香苗です。お義姉さん? 今日、修君は家にいるの? そう、ちょうどいい。今こちらに大西さんというお嬢さんがお見えなの。修君に話したいことがるそうなのでこれから連れて行くわね。じゃあ」
香苗は一方的にしゃべって一方的に電話を切った。
「いいんですか? 急に行って」
由美子は不安になった。
「いいのよ。今はあなたが前進すべきときなのよ。それから、せっかくいただいたお土産なんだけど、うちでは食べる人がいないので、片倉町に持って行こうね。義姉の受けが違うから」
日が傾いて、日差しが少しだけ優しくなっていた。片倉町の家のドアを開いてくれたのは絵里子だった。
「まあ、あなたが大西さんなのね。よく来てくださいましたわね。どうぞ、お入りになって」
上品で素敵な笑顔だったが、出自や趣味や性格を一目で観察されたような鋭い一閃を由美子は感じた。
リビングは、アイボリーとブラウン系統系統で統一された色調で、落ち着いた雰囲気を醸し出しているが、その神経の細やかさに圧迫感があった。
差し出した由美子の手土産を絵里子は大仰に喜んだ。
「もう、大西さんったら。手ぶらでいらして下ったら良かったのに。楽しみにしていたんですよ」
「突然おじゃまして、本当にすみません」
由美子は、立ったまま両掌を前で会わせ、腰のあたりから直角に上体を倒すお辞儀をした。
「香苗さんはいつも突然だから驚かないことにしているのよ。さあ、どうぞお座りください。今日は菊名の家にご用があったのですか?」
この問いには香苗が答えた。
「大西さんは修君に連絡を取りたいだけだったのよ」
香苗は、由美子がそのため菊名を訪ねてきたことを手短に説明した。「お義姉さん、修君はいるんでしょ」
「ええ居ますよ。でも、ちょっと精神が不安定なんじゃないかと心配で、いったんあなたの話を伺ってから会っていただこうと思っているんです」
「精神が不安定なんですか?」と由美子。
「まあ、そんな感じがするんです。顔色も悪く、食欲もなく、ずっと部屋にこもりっきりだったりするものですから」
「じゃあ、私と似ていますね。私も夏休みになってからは部屋にこもりっきりになっていましたから」
「そうなんですか?」
絵里子の声に不満の響きが滲んでいた。
由美子は、伊香保の研修旅行以降に自分の身の回りに起きたことを説明した。身に覚えのないことで修に会えなくなったり、クラブの仲間から疑われたり、果てにはクラブに関係のない友人からも疑いをかけられ、このままでは学校を続ける自信がなくなっていることを説明した。
「それじゃあなたは修が嘘をついていると疑っているんですね!」
絵里子の声には、由美子の体にきりきりと何かが巻き付いてくるような怒りがこもっていた。
「いいえ、そうじゃないんです。私には何が起こったのかさっぱり分からないのです。私に責任があるのなら、どんなことを言われても仕方がないと思っています。その覚悟はあります。私は事実を知りたいだけです」
「それはね。あなたが知らない間に起きたからよ」絵里子は、冷たく上手な物言いをした。「これ以上は、修から直接聞いた方がいいでしょう。そうすればあなたにも納得いただけるでしょうから」
絵里子はリビングを出ていった。階段を上がっていく足音がした。そして、ばたばたと降りてくる乱雑な足音になった。
修が気まずそうな顔つきで入ってきた。その後に絵里子が続いた。修は由美子に向き合う椅子に腰掛けた。由美子が修の顔を睨んでいる。
「学生課が私の周辺を調査しているらしいの。私の彼氏があなたを脅迫しているって。本当にそうなの? いつ、どこでそれが起きたのか、教えてほしいの」
修は、由美子に正確に伝えようとしているらしく、記憶を辿るようにとつとつと語り始めた。
「伊香保からの帰り、関越高速に乗る前のドライブインでおみやげ物屋に寄りましたよね。僕がテーブル席に座っていてスマホゲームをやって、大西先輩がトイレから戻ってくるのを待っているとき、先輩の彼氏が近づいてきて、昨日はうまくいったかいとか、俺の女に近づくなと言われたんです。腕をつかまれ、タオルの巻かれた金属バットを見せつけられて、僕を店から連れ出そうとするんです。僕は怖くて足がふるえて声も出せませんでした。先輩が戻るのがもう少し遅かったら店の裏に連れ出されて殴られていたところでした。その人は、先輩にはそんなストーカーまがいの姿を見せたくなかったんだと思います。先輩の姿がちらっと見えたら、姿を隠しましたから」
「なぜあの時私に言わなかったの?」
修は顎をふわせて「いやあ、とんでもない」と言った。「殺されてしまいます。それに誰にも信じてもらえないと思ったのです。余りに唐突で、誰も見ていないし。うちの母さんだってはじめは信じなかった。なぜバットなの。そんなもの誰も持ち歩かないでしょうと言って。交番に被害届を出したときも、まったく信じられないといった顔をされました。学生課でも同じ。父と一緒に行ってやっと取り合ってくれたけど、甘えん坊の子供扱いをされました。大西先輩。もしも、あの時先輩の彼氏から脅かされたと言ったら、信じてくれましたか?」
由美子はゆっくり顔を左右に振った。
「先輩さえ信じてくれない。それはあの時の僕の現実でした」
由美子は静かに修に聞いた。
「今でも私にそんな彼氏がいると思っているの?」
修は弱々しく微笑みながら「今は思っていません」と答えた。
「どうして?」
「先輩がうちに来ると聞いた時からずっと考えていたんです。自分のことを。先輩になぜ相談しなかったのか。自分は馬鹿で、弱虫でした。先輩の顔を見たら、やっぱり自分が弱虫だったことが分かったからです。あの時は恐怖だけが真実でした。誰が何を言おうとそれは全部嘘に思えました。真実は金属バットだけでした。それしか頭になかったのです。すみません」
「やっぱり、会って話せて良かった。私、ずっと杉本君に腹を立てていたの。なぜ身に覚えのないことで非難されなきゃならないんだってね。その出所が全部杉本君じゃない。その上いっさい連絡できないんだから。でも、杉本君の話を聞いていて、私にも同じような経験があると思ったの。私、1年生の時秋葉原で見た男にストーカーされて電車で痴漢にあったって話したわよね。それで男性恐怖症になったと。本当はもっと怖い目にあったの。電車が次の神田に着いたのでそこで電車を降りたの。怖いから近くにあった児童公園のトイレに避難した。女子トイレよ。でもその男が追ってきて『おい、あけろよ』とすごむので、私耐えきれなくて『止めてください』と悲鳴を上げてしまった。すると、男はドアを蹴飛ばして『なんだよ、誘っていたんじゃないのかよ』と捨てぜりふを残して行ってしまった。私は30分以上もトイレから出られなかった。怖かったのは勿論だけど、男の捨てぜりふがショックだった。それからは男の顔を見ると矢印がだぶって見えるようになって、今になって思い出してみると、あのドライブインでも気味の悪い矢印が見えたのよね。ひどく鋭い顔立ちの連中がいたので嫌だなと思っていた。でも、杉本君がそばにいたので安心していたのを思い出した」
「やっぱりちゃんと話し合うべきよね。信じられないようことはやっぱり起きるもの。でも、修君は結果として良かったんじゃないの。変な男たちから大西さんを守ることができたんだし」香苗は、ソファーに背中を預け、遠くを見るような目をした。「私もちゃんと話さなければならないなあ」
絵里子は、まだ腹立ちが納まりきれないのか修の顔を睨んでいた。
「修、あなたあんなに生きるの死ぬのみたいな顔をしてさんざん私たちを心配させたのは何だったの? このお嬢さんに彼氏がいないことが分かったら直る病気だったわけ? めんどうくさい男ね。父親似か。あー嫌なことを思い出した。修、あなたこのお嬢さんが好きなら好きとはっきり言いなさい。付き合いきれないわよ」
絵里子が雷鳴のような声を発したとき、電話が鳴った。絵里子は不機嫌なまま電話をとったが、声は急にはなやかな声に変わった。
「……まあ、おひさしぶりですこと、いかが……北海道からお戻りですか。それはうらやましいところでお仕事だったんですね……」
香苗が肘で隣に座っている由美子の肘をつつき囁いた。「さすが義姉さん。変わり身が早い」
「……へー、夜空さんが今日レンタルボックスに行かれたのですか。それで、うちの義母が入院したのを知ったのですね。それで、具合はどうかと……」
由美子が修のほうへ顔を突き出して話しかけた。「夜空さんだって。杉本、覚えている?伊香保の女将が持っていた写真。私、今日レンタルボックスで夜空さんに会っている。きっとあの人だ。夜空だなんてそんな珍しい名前聞いたことないもの」
修は由美子の顔と受話器を持った絵里子の横顔を交互に見比べ、由美子に訊いた。「写真のもう一人の男の子の名前は?」
「星也」
修はうなずいた。
「……義母は退院したらまた巾着をしたいって張り切っていますので。ええ、大丈夫です。夜空さんによろしくお伝えください。はい、ごめんください。……」絵里子が受話器を置いた。
「おかあさん!」と修が声をかけた。
絵里子はまた不機嫌な顔に戻った。
「なによ、急に大きな声を出して。現金な子ね」
「今の電話、星也さんだよね」
「えー、なぜ、あなた星也さんのこと知っているの?」
「やっぱり。伊香保で二人を待っている人がいたんだ。また伊香保に行く用事ができたな」