第7話 渚の場合 芦野信司(絵も)

dsBuffer.jpg
登場人物  小林 渚  48歳 小林酒店の一人娘
      小林翔平  27歳 渚の長男
      小林正男  50歳 渚の夫
      小林ゆう子 73歳 渚の母
      宗次良太  48歳 焼鳥屋の店主
      ギルバート・香苗  48歳 英国在住

 菊名駅前の商店街は道が狭い上に車の往来が激しいが、街道からちょっと入った飲食店の並んだ路地の午前はひっそりしている。
 「やきとり むねつぐ」の看板がかかった店の前に、小林酒店と名の入った軽トラが止まった。運転席側のドアが開いて若い男が降り、反対側から渚が降りた。若い男が店の戸をガタガタと引きながら「こんにちは小林酒店です」と声をかけた。
「オー翔平か。ごくろうさん」店主の良太が応えた。「お母さんの手伝いかい?」
 翔平と呼ばれた若い男が少し躊躇するように答えた。
「いえ、手伝いじゃないんです」
 渚が、翔平の大きな背中の横から顔を出した。
「来年の結婚を前に、いよいよ本式に酒屋をやってくれるんだとさ。前の会社を辞めて、今日はその初日。納品しながら、お得意さまに顔見せしているの」
 渚が翔平の背中を押して「ほら、注文のお酒をトラックから持ってきて」とどやした。
「これから、よろしくお願いいたします」
 翔平は良太に丁寧に頭を下げて、外に出て行った。
「うちのおばあちゃんもだいぶ歳になったので、お嫁さんと一緒に住んでくれるって言うの。古い家だけど独りで住むには大きすぎるし、夜も安心だからありがたい。お嫁さんは店番もしてくれるみたいだし、願ってもない話なんだけどさ、なんだか気の毒で」
「せっかくなので、渚も一緒に住んだら? ご亭主と一緒に」
 渚は、上目遣いに良太をにらんで首を横に振った。
「いやあ、それは無理。あいつは自己主張なんかしないように思われているけど、とんでもなく頑固よ。私と結婚するとき、うちの父親から言われたことをずっと根に持っているからね」
「結婚してからあらかた30年にもなるのに?」
「いくら経っても、それは変わらない」
 渚と良太がそんな話をしている間に、翔平が生ビールの樽と瓶ビールのケースを店内に運び込んだ。
 良太は、そんな翔平の姿を見ながら「亡くなった親父さんが、今頃喜んでいるよ」と言った。「そうだ、翔平。日高見も置いていってくれよ。おまえの母さんがこの間、飲み干したから」
 渚が反論する機先を制して、翔平が鋭くこたえた。
「毎度ありがとうございます」
 翔平はまた外へ出て行った。 
 良太は、生ビールの樽を両手で持ち上げ、カウンターの内に運び込んだ。代わりに空の樽を持ってきた。
「そういえば、この間、香苗のご両親と甥子さんが来ていただろう。あのとき話が出ていたんだが、香苗の旦那の会社が倒産したんだって? それで香苗がロンドンから日本に帰ってくるとか来ないとか言ってたけど」
 良太はそう言ってからビールケースに手をかけた。作業の片手間に訊ねているという風だった。腰を下げて、よいしょと持ち上げた。
 渚は、甥の手前、香苗のことはあまり話さなかったことを思い出した。
「離婚するかもよ」
 渚は、良太がびっくりするだろうと思いながら、少し意地悪なぐらいにあっけらかんと言い放った。
「そうか」
 良太は、ビールケースをカウンター内に運び込んで、奥にある大きな冷蔵庫を開け、ひと瓶ずつしまい始めた。
 その後ろ姿を見てると、渚の脳裏に中学一年の最後の日の事件が蘇った。終業式のあと、良太と香苗が居なくなったのだ。渚の家に香苗の両親が訪ねてきたのは、その夜の8時だった。まだ、香苗が家に戻っていないという。その前に学校に連絡したら、良太も家に帰っていないことが分かったという。結局9時になって二人はそれぞれの家に戻ったが、二人は何をしていたかを話さなかった。学校を巻き込んだ事件となったため、二人は根ほり葉ほり訊き出され、二人で山下公園に行ったことと、県内有数の進学校に合格した兄に香苗がプレゼントを探していたことがわかった。
 学校は新学期までの休暇に入ったが、噂は尾鰭をつけて広がり「良太は不良」のレッテルが貼られてしまった。香苗は、小学生からずっと友だちだった渚にめそめそしながら「私が誘ったので、良太は悪くない」と訴えた。香苗の両親も日頃の香苗を知っているので苦笑いで終わったらしい。しかし、生意気盛りだった良太は先生に何か暴言を吐いて、父親からこっぴどく殴られたという噂だった。
 良太はあの頃から香苗が好きだったと渚は思い返した。そして、あのとき渚が受けたショックも。良太が哀れだと思った。
「良太さん。今見たんですが、日高見を積んでいなかったので。ちょっと店に帰って持ってきます」
 翔平が、入り口から声をかけた。
「いやあ、急に言った俺が悪かった。今度でいいよ」
「いえ、どうせ直ぐです。ご迷惑でしょうが、母さんの話し相手をしていてください」
 渚は翔平を振り向きざま叱ってみせた。
「何をバカなことを言ってるんだい。さっさと行ってきな」
 軽トラが走る去る音が聞こえた。
 渚はカウンターの椅子に腰を下ろして良太を見た。
「香苗の旦那の何とかという大きな旅行会社が倒産したんだって」
「それで離婚かい?」
「理由じゃなくて、きっかけかもしれない。昨日、とにかく一度戻るってラインが来たから早々に戻るんじゃないかな。なにせこうと決めたら曲げないからね」
 渚はそう言ってから、ひとり笑いをした。
 良太は、渚の笑いをとがめるような目つきをした。
「何だい。何が言いたいんだ」 
 渚は、良太が中学の時の事件を思いだしているのじゃないかと思って、ちょっと横を向いてもう一度ふっと笑った。
「ほら、私たちは公立高校の商業科に行ったじゃない。それに対し香苗は私立高校。私たちは継ぐべき家業があったからさ。良太は魚屋を継いでいないけれどね」
「俺と親父はうまく行かなかったから」
「私も同じよ。酒屋を継げの一点張り。私に選択の自由はなかった。だから、香苗がうらやましかった。高校卒業の時、香苗と伊豆に旅行に行ったのもそれぞれ違う道に行こうとしている感じがあったからだったけど、稲取から帰って来ようという時、香苗がヒッチハイクしようと言い出したのよ。一人じゃ怖いけど二人なら大丈夫だと言って。私は反対したのよ。でも、香苗はね、二人の思い出を作るんだって聞かないの。そのとき止まった大型トラックがうちの亭主との馴れ初めになるんだから不思議。私が結婚したのは、あのとき香苗が自分の意見を曲げなかった結果よ。それを思いだしたの」
「ああそうだ、渚に長距離トラックの運転手の恋人ができて、あっちこっち遠乗りしてるって親父さん怒っていたもの。そのうち、子供ができたってぼやいていたけど、それが翔平なんだから結果オーライ。渚の結婚は大成功。俺や香苗とは違って」
「とんでもない。あいつは、わざわざ私が困っている時に浮気していたもの。最初は父が入院したとき。翔平は小学校に上がっていたけど次男が幼稚園で娘がまだ3歳だったかな。酒屋の仕事が分からなくててんてこ舞いだった。あのときは良太にも配達手伝ってもらったよね。ほんとにありがたかった」
「困ったときは助け合わないとね」
「ところがさ、うちの亭主は絶対手伝わなかったもの。父が出した結婚の条件が二つあって、一つは店の跡継ぎは私であること。だから店の財産や仕事には関わらせないと言ったからね。もう一つは私が一人娘だから小林の姓は捨てさせない。お前が婿になって近くに住めだった。この約束だけは守ってるよ」
「他にも浮気はあったのかい」
「あったね。浮気していると帰って来なくなる。その点、父は男を見る目があったのかな。父はあいつのことを猫みたいな奴と言って嫌っていたから。いつの間にか居なくなって、いつの間にか帰っている。長距離トラックの運転手で、いつも家に居ないから、居ないのが当たり前みたいなところがあって、子育ても私とうちの母に任せっきり。家に居るときは、いつも寝ている。今日も居るけど寝ているものね。そんな結婚が大成功なら、結婚って何よ」
 良太は、頬に手をやり目をつむって渚の話を聞いていた。黙ったまましゃべらない。渚もカウンターに顔を突っ伏したまま動かない。良太は腕を伸ばして、渚の髪に手をやった。
「いいよ、やさしくしなくたって。また好きになっちゃうじゃない」
 渚は顔を伏せたままそう言った。良太の手が渚の髪から離れた。
 良太は、冷蔵庫から鶏肉のかたまりを取り出してまな板の上で焼き鳥の下拵えを始めた。同じ部位の肉を適量の大きさに切りそろえボウルに移していく。それを取り出して串を打つ。タッパーに詰めて冷蔵庫に戻す。葱なども水洗いしてから水分をふき取り、同じ大きさに切っていく。良太の包丁の音が軽やかにまな板に響いた。
 渚にはその音が子守歌のように心地よかった。少し眠ったのかもしれない。気がついたときには、翔平が横にいた。
「母さん、次行こうか」
 翔平の手が渚の背中を揺すった。
 カウンターから顔をあげた渚に、良太が一升瓶を持ち上げながら笑っていた。
「日高見、入ったから。待っているよ」

 軽トラは混んだ街道を走り大きなビルの裏に入り込んだ。ビルの地下にお得意さまが三軒ある。翔平は折りたたみの台車に酒やビールのケースを乗せ、車と店を何度も往復しながら納品をこなしていく。渚の仕事ぶりも誉められることが多いが、翔平のスピードには叶わない。お得意さまにも翔平は好印象を与えたようだった。
 このあたり一帯は坂が多い。登りも下りも急だ。4WDの軽トラは嬉々として走り回る。隣町のお客様にも挨拶を済ませ、二人が小林酒店に戻ってきた時には二時近くになっていた。渚の母のゆう子が店番をしながら、二人のために昼食を用意していた。昼食のあとは小休憩。お得意さまが夕方の開店準備にかかったときにもう一仕事しなければならない。
 ダイニングの椅子でくつろいでいる渚に、テーブルを挟んで反対側にすわっていた翔平が声をかけた。
「今日が僕の酒屋の初日なので、お母さんに言っておきたいことがあるんだ。聞いてくれる?」
「もちろんよ」
「おじいちゃんが亡くなる前、僕を呼んで『店はお前が継げ』と言ったんだ」
「そりゃそうでしょ。おじいちゃんはお前が生まれたとき、跡取りができたって喜んでいたもの」
「うん。そうじゃなくってね。店はおばあちゃんに残すので、おばあちゃんからお前が引き継げって言われたんだ。お母さんじゃなくてね。僕、その時高校3年で、すぐにはいとは答えられなかった。それがずっと心に引っかかっていた。お母さんは聞いていた?」
「いや、覚えてない。おじいちゃんのことだから、そんなこと言ったかもしれないけど。あのころ、いろんなことがあって忙しかったからね」
「それでね、この前おばあちゃんに聞いてみたんだ。おじいちゃんから聞いてるかどうか。僕の思い違いかも知れないしね。そうしたら、おばあちゃんは覚えていた。そんなことを言っていたねって」
 翔平は一度目をつむった。祖父の遺言めいた言葉を言われたときのことを思い出しているようだった。
「おじいちゃんから言われたからじゃないけど、そういう相続の仕方もあるかなと僕は思っている。弟も妹も酒屋なんかまっぴらだと言うし、お父さんは端から関係ないものね。せっかく続いてきた酒屋だけど、いまのままじゃ先細りになると思うんだ。相続税の問題もあるから一緒に住んだ方がいいし、この土地を担保にお金を借りて店の上を賃貸マンションにする手もあると思うんだ。お父さんお母さんと一緒に住めるようにしたいし。これから、いろいろ考えないといけないんだけど、それを考えるのは僕だろうという気がする」
 渚は大きくため息をついた。翔平の考えていることの本当の狙いがどこにあるのかが全く分からなくなった。親孝行とばかり思っていた翔平だったのに、深い周到な計画をしていたことを知った。もちろん、周到な計画が悪いわけではないし、それが孝行と結びつかないわけではない。しかし、それは渚の生きている世界とは別物のような気がした。
「お前がそう思うんだったら、そうすればいいんじゃないかな」
 渚は、そう答えるのがやっとだった。

 渚は急な疲れを覚えて夕方の配達は翔平に任せることにした。翔平は、自分が変なことを言ったせいじゃないかと心配したけど、渚はそうじゃないと言って自転車で自宅に戻った。
 自宅は小林酒店から妙蓮寺の方向に15分ほど走ってところにある賃貸マンションの3階だ。娘も勤め始めて独立したので3LDKの間取りは二人暮らしには無駄な感じがした。結婚したての時に住んだ2DKの安っぽいアパートが懐かしかった。
 渚が鍵を開け「ただいま」と声をかけたが返事がない。リビングに入ると夫の正男の頭がカウチの端から出ている。眠っているらしかった。
ヒッチハイクで止まってくれた大きなトラックの窓から突き出た二十歳の正男の顔はびっくりするくらい幼顔だったことを思い出した。渚と香苗は思わず顔を見合わせたのだった。自分たちより若いのじゃないのかと怪しんだほどだった。そして、この人なら怖く無いと思ったのだ。
 渚はダイニングの椅子にすわって正男の寝顔を見た。あのとき正男は「助手席は一つなので、ひとりは座席のうしろのベッドになるけどいいかな」と言ったのだ。じゃんけんで負けた渚はベッドになった。香苗は大型トラックの視界の高さに大はしゃぎしていた。渚はうしろからシートに掴まるようにして、右手に広がる相模湾を見ていた。香苗と正男は随分楽しそうにおしゃべりしていたのに、横浜駅で降ろしてもらったときに電話番号のメモを渡されたのは、渚の方だった。
「もし、よかったら電話してね。今度は前の席に乗せてあげるよ」
あのときから結婚するまで、渚は香苗からさんざん冷やかされたものだった。
「ねえ、起きなさいよ」渚は正男の腕を揺すった。「香苗がロンドンから帰って来るんだって。離婚するんだって」
 正男は目をしばたたせながら「何だ、そんなことか。どうでもいいじゃないか」と面倒臭そうに顔をしかめた。そして、また目をつむった。
 渚はそんな正男の顔を見ていると無性に腹が立ってきた。正男の手の甲を思い切りひっぱたいた。
「痛い! 何すんだよ」
 渚の目は怒りに濡れていた。
「私だって、私だって、いっぱい我慢してきたんだからね」そう叫んで、正男の腕をぴしゃりぴしゃり叩きはじめた。「このバカ。このバカ。勝手に女作って居なくなっていたくせに。私が本当に苦しいとき、お前は何やっていた! 私が知らないとでも思っているの。絶対許さないから。一生許さないから」
 渚が怒り始めると自分の言葉に感情が煽られて怒りが収まらなくなる。正男は無抵抗で殴られている。こんな時は自然に興奮が収まるときを待つしかないのだというように。
「私を何だと思っているのよ。みんな私をバカにしているの?」
 正男は、渚の背中に手を置いて静かに宥めた。
 しばらくして、渚はしゃっくりをし始めた。
「あれっ、変ねえ」
 渚は急に憑き物が落ちたようにいつもの声に戻って流しに立っていった。そして、コップで水道水をひと飲みした。しばらくぼんやりしていたが、振り返って正男に言った。
「ねえ、またトラック乗りたいよ。店は翔平に任せて、一緒にあっちこっちへ行ってみようよ。ねえ、そうしよう」
                            

"第7話 渚の場合 芦野信司(絵も)"へのコメントを書く

お名前:
メールアドレス:
ホームページアドレス:
コメント: