第13話 由美子と修の伊香保旅行 藤村邦 

13.jpg(絵・芦野信司)

「そんな遠いところまで車で大丈夫なの?」
 エプロン姿の母の絵里子が一泊分の着替えとタブレットをいれたデイパックを背負った修に声をかける。
「大丈夫だよ親父の車は乗り慣れているから」
 母親は夫の宏が休日だけ使っている車のキーを息子の目の前にぶら下げて、飼い犬に「待て」をさせるような調子で「安全運転で行きますと、頭を下げて私に誓いなさい!」と言った。絵里子より10センチ背が高い修が「お母さん、僕は安全運転を誓います」と仰々しく頭を下げると、絵里子は両手で修の手を包み込むようにしてキーを渡した。
 「車を傷つけたらお父さん怒るわよ~、本当に安全運転で行きなさいね!」という母の声を背中で聞いて、車のおいてあるガレージに向かった。 
 ガレージには20年前に父が買ったレガシィツーリングワゴンが置かれている。修も母も車検の度に「新しい車に買い換えようよ」と何度も言ったが、父に買い換えの話をすると「これ以上の車はないんだ!これは俺の思い出だ!」と普段見ないような剣幕で猛反対した。修はどのくらいの価値があるのかと思い、父の車の値段をこっそり中古車サイトで調べたことがあるが、二年前にすでに80万円で売られていた。それを毎回20万円近く出して車検に通す父の気持ちの拠り所は修にはわからなかった。
 修が物心ついた頃から、毎年夏と冬の二回温泉旅行に家族と菊名の祖父母と一緒に行くことが慣例であった。伊豆、箱根、栃木、群馬と毎回違う温泉に行けることが修は楽しみにしていた。しかし修が小学6年の時、菊名の家で父と祖父が大きな声で言い合いをしているのを聞いた後から、祖父と父は全く交流を絶ってしまった。祖父母を加えた温泉旅行は二度と計画されることはなかった。あの時に、何があったのか修にはわからない。祖父と父親だけではない。家族の中での父親の口数は減り、修が父と話すことも殆どなくなった。母と修が自分の家と祖父母の家の繋ぎ役になって、菊名と家を行ったりきたりしている。しかし修が運転免許を取ったことを父が知ると、珍しく自分から声をかけてきて「修、あいつに乗ってあげてくれよ、あいつもきっと喜ぶから」と車を使うように言ってきた。修は父の車を借りて湘南道路で小田原までドライブしたり、一人で母方の祖父母が住む静岡まで運転して行ったりした。

 7月の週末に「フィギュア愛」同好会の研修旅行が計画された。同窓会でも大学から活動費が年間5万円だけ支給される。普段は新人歓迎会や追い出しコンパに使うのだが、今年に限りフィギャア愛には入会者がいなかった。そこで、研修旅行を計画することになったのだ。田村先輩の故郷に近い伊香保温泉に研修先は決まった。オモチャと人形、自動車博物館が近くにあるからだ。研修申請書には「オモチャと人形、自動車博物館におけるフィギュア研究」と書いて、交渉上手な由美子が学生会に持って行くと、あっさり許可が出て3万円の資金調達ができた。
 研修旅行には大西由美子を含む女性四人、修と田村先輩の男性二人が参加することになった。しかし、女性一人がバイトの都合で来られなくなり、前日に、もう一人は熱がでて、結局は修と由美子、田村先輩と先輩の彼女である麻里さんの四人で行くことになった。
 修と田村先輩が車を出すことになり、二組のカップルで伊香保温泉に現地集合し、一泊した後、翌日は博物館を見学して帰る計画にした。
 午後3時、修は東戸塚駅前の車寄せにツーリングワゴンを止めて由美子を待っていた。修は、由美子が自宅に来た時の帰りに話した男性恐怖のことを心配し、旅行が決まった直後にLINEで「電車で行きましょうか?」と連絡すると「なんで?やだよ、そんなの」と答えが返ってきた。
 バックを持った由美子がやってきた。袖コンシャスで胸元の広い白シャツに前ボタンのデニムスカート姿である。ニコニコしながら「かっこいい車」と助手席のドアを開けて、自分の家の車のように勝手に乗りこんできた。由美子が乗るとシトラスの匂いが車内に拡散した。女性を乗せて長距離ドライブすることは始めてだったが、由美子と近づけると思うと修の胸はときめいた。
 父の車にはカーナビが着いていなかったので、修は伊香保までのルートをスマホに入れて音声案内するようにした。由美子がシートベルトをすると、ベルトが胸の間を通って服が押しつけられ、今まで気づかなかった由美子の豊満な乳房の形が現れた。
 由美子は、あの日に語っていた男性恐怖は何処吹く風といった様子で、テンションが高くなり、巾着の売り上げが伸びているとか、ゆるキャンの志摩りんがヤフー順位で3位になったとか、部長が何もしないので副部長の自分が大変だとか、来年は自分が部長やるから、修が副部長やれだのと、一方的に話し続けた。
 車は練馬インターから関越自動車道に入った。
 由美子の話に付き合うのが面倒くさくなってきた修は、「大西先輩、後ろに親父のCDケースがありますから、何か選んでください」と言った。後部座席に置いてあるアタッシュケース型のCDケースには200枚くらいの音楽CDが入っている。由美子はアタッシュケースを膝の上に置いて、一枚一枚取り出し、中島みゆき、松任谷由実、エリック・サティと読み上げて確認している。突然宝くじに当たったような勢いの声で「わお、ストーンズがあった」と言った。
「ストーンって何ですか」
「え、知らないの!ローリング・ストーンズよ。母がファンで毎日YouTube見てるのよ、私もファンなの」
 CDを挿入するとストーンズの曲が流れてきた。激しいギターのリフが始まった。
 Start me up ♫、Start me up♫♫
「なにこれ!凄い良い音じゃん」
「親父は音に凄く凝るんですよ」
 由美子はうるさいくらいに音量にカーオーディオのボリュームを上げた。一人で曲に乗り始めて、両手でリズムをとっている。
  Start me up ♫、Start me up♫♫
 「△%△*」
 何か由美子が話しかけてきたが、ギターの音が大きすぎて聞こえない。
 ボリュームを少し下げて「何ですか?」と聞き返すと、「修のお父さんって何してるの、趣味がいいよね」と由美子が質問してきた。
「インターネット会社、楽天の関連会社で音楽を担当してるんです」
「この車は父のお気に入り。父の運転で、小さい頃はお爺ちゃんやお婆ちゃんも連れて、毎年、温泉行ってたんですよ。この高速も走ったことがある」
 タイミング悪くスローな悲しい雰囲気の曲になった。
 Angie Angie when will those clouds all disappear?
Angie, Angie where will it lead us from her
「私にはそういう時代はなかったなあ……」
修は由美子が母子家庭だったことを思い出して話題を変えた。
「ローリングストーンズってどこのバンドですか」
「イギリス。ビートルズと同じくらい人気があったのよ。でも、今も現役なの。ボーカルは70歳過ぎている」
「僕のお爺ちゃんと同じくらいの歳でロックしてるんだ、すごいなあ」
「でもね、母が一番好きなのは、ミック・ジャガーやキース・リチャーズじゃないの、ドラマーのチャーリー・ワッツ」
「よくわからない」
「派手なパフォーマンスやるミックやキースの後ろで、淡々とリズムを刻むの、実はバンドを支えている人」
「まったくイメージわかないなあ」
「あ!」
「何?」
「今わかった。修のお爺ちゃんって、チャーリー・ワッツに似ている」
 ストーンズを始めて聞いた修にはチャーリー・ワッツがどういう顔をしているかもわからない。ただ、フィギュア愛とは全く違う世界を由美子が持っていることに驚いていた。
 車は東松山インターを通り過ぎた。
「修とお爺ちゃんは雰囲気が似ているよね、二人とも毒気ないじゃない」
「お爺ちゃんってフィギュアじゃなかったの、毒気なんかないほうがいいじゃないですか」
「そんなことないの!薬男と毒男って知ってる? 看護師やってる母が言ってた。安全で安心な薬男と付き合いたいのに、遊び人やギャンブルばかりする毒みたいな男と付き合う看護師が結構いるんだって。薬男ってつまらないから毒気に惹かれちゃうらしい。そういう子に限って幼い頃に父親から酷いことされたりしているらしい、あなたも毒男に気をつけなさいって母から言われたわ、ハハハ」
「そんな話しが出来る僕は、つまらない薬男なんですね」
「修はねえ……毒でも薬でもないね。あ!見て、見て、山が沢山見えてきた」
 絵里子がスマホの地図で山の名前を確認し始めた。
「今、あれが赤城山、あれが榛名山っていうんだ」
 I can’t get no satisfaction ♬ I can’t get no satisfaction ♬♬
「あ、サティスファクション、これ大好き」
 由美子はまたボリュームを上げた。
I can’t get no satisfaction oh no no no hey hey hey ♬
 車は高崎インターチェンジを通り過ぎて、渋川・伊香保インターまで9キロと書いてある地点になった。右手に赤城山、左手に榛名山を仰ぎながら修が運転するツーリングワゴンは北に向かって走る。
 渋川・伊香保インターを降りて、20分走ると伊香保の温泉街があった。宿泊予定のホテルは石段の上の方にある。駐車場に車をいれて自動ドアの玄関に入ると、着物を着た仲居がフロントは右手ですと案内する。フロントの脇には土産屋があり、ぐんまちゃんというキャラクター商品が沢山売っていた。
「修、部員への土産はぐんまちゃんフィギュアだね」
「そうしましょう!」
 フロントに立つ中年男性に「青嶺学院で予約してあるものです」と告げると「フィギュア愛さんですね。先に二人が到着しています、男性が505号室,女性が502号室です」と言った。
 505号室のドアの前には「青嵐学院、同窓会フィギュア愛。田村様、杉本様」と書いた紙が貼ってある。部屋を叩くと田村先輩がドアを開けた。先輩はすでに浴衣に着替えていて、座敷のテーブルの上にはビール瓶とグラスがあった。10畳くらいの部屋の広縁には小さいテーブルと二脚の籐椅子があり、大きな窓の向こうには深緑の山々が見えていた。デイパックを広縁の隅に置き、籐椅子に座ると、座椅子に座った田村先輩が話しかけてきた。
「杉本さあ、来た早々の相談だけどな、部屋を麻里と変わってくれないか」
「え?それはだめですよ。大西先輩と僕が一緒の部屋なってしまうし、そんなの大西先輩が許しませんよ」
「杉本と大西も付き合っているんじゃないの?」
「付き合っていませんよ。最近、少し仲良くなっただけです」
「それじゃあ、更に仲良くなる機会で良いじゃないか」
「絶対、駄目ですよ、大西先輩が怒ります」
 その時、トントンとドア叩く音がした。修が立ってドアを開けると由美子と浴衣を着た麻里さんが立っている。
「修、麻里さんと部屋の交代だって」
「え、先輩は僕でいんですか」
「修が何かしたら絞め殺すから大丈夫」
由美子は黒目勝ちの大きな瞳の顔を修に向けた。
 由美子の部屋は505号と同じ作りだったが、こちらの部屋のが景色は良かった。畳の上の座布団に由美子は座っている。チラッと目をやると膝から下のスラッとした素足が見えた。
「とりあえず、私はお風呂に入っくる。修は待ってるの?」
「じゃあ、僕もいきます」
 浴衣と帯とタオル一式を持って、最上階にある温泉に行った。途中の廊下には与謝野晶子の歌を紹介するコーナーがあったりして、古くからある温泉宿のようであった。
 男湯の入り口にスリッパは一つもなく、温泉は修一人で独占だ。浴槽は石で作ってあり、湯は黄金の湯で茶色だ。壁際には大きな目玉のカエルの石像があり、その口から湯が出ている。展望風呂というだけあって、深緑の山々、その向こうには薄暗くなってきている空が見えた。
 外に露天風呂があった。露天は女子風呂と薄い板で仕切られているだけである。足を伸ばし夕暮れの風を感じていると。隣の露天に女性が話しながら入ってきた。一人の声は由美子だった。
 男湯の音が聞こえないように身体を動かさないようにして聞き耳を立てる。
 ザブンと湯に入る音が聞こえる。もう一度、ザブンと聞こえた。由美子が隣の露天に裸でいる。
「そう、青嶺学院なのね、私の娘は英文科を出て県庁に勤めてるの」
「私も英文科なんですよ」
「伊香保温泉で彼氏とデート?」
「違いますよ、サークルの研修で来てるだけです」
 修の胸がドキドキしてきた。シトラスの匂い、豊満な胸、すらりと伸びた足……由美子の裸体が浮かんできた。修の中に男性性が立ち上がってくる。股間に突き上げるような衝動が走り、避けられない肉体的反応が起きてきた。
「素敵な景色よねえ」
「そうですねえ」
「若い人っていいわねえ、あなた、本当に綺麗で張りのある肌、スタイルもいいわよ。あ、私は連れ合いが待っているので先に出ますね、ごゆっくり」
 中年女性の声に続いて湯船からあがる音が聞こえた。しばらくすると由美子が湯からあがる音が聞こえた。
 由美子の裸体が壁の向こう側にあると思うと、修の衝動は抑えきれなくなった。修は誰もいない洗い場にもどって椅子に座り。硬直したペニスを握った。出したい気持ちが、もう抑えられない。風呂に誰も入ってこないことを願い、裸の由美子を抱く自分を想像しながら修は最後まで達した。
 風呂から上がり、誰もいない脱衣室のマッサージ椅子に座っていると、運転の疲れが出たのか、由美子の刺激が強かったのか、思わず居眠りしてしまった。時計を見ると30分も経っている。
 慌てて、浴衣に着替えて部屋に戻った。
「遅いよ修、何してたのよ!」
「疲れて居眠りしちゃったんです」
 浴衣姿の由美子が、伊香保マップを見ながら「ねえ、夕食、どこで食べようか?」と言う。「先輩達と一緒に4人で食べるんじゃないんですか」「先輩達、二人で榛名湖まで行って食べるって?もう出かけちゃったわよ、どうする。石段街に行って何か食べない」
 由美子と修は下駄を履いて、石段に向かった。平日なので人はそれほど多くはなかった。バスターミナル付近の入り口から伊香保神社のある頂上まで365段の石段が続いている。すっかり暗くなっていたが石段の脇には、レトロな遊技場、饅頭屋、土産屋、駄菓子屋の明かりがついていた。
 ホテルは階段の上の方にあったので、二人はゆっくりと石段を歩いて降りた。前からカップルが上ってくる。背の高い男性は以前テレビで見たことのある端正な顔立ち、女性はブロンド髪の外国人女性だ。由美子が「こんにちは」と挨拶すると、二人は笑顔で会釈だけして、すれ違って行った。
 階段の途中で由美子は立ち止まった。
「この通りに入ったところに、いかほ食堂っていう居酒屋があるのよ。さっきグルナビで見たら評判よかったし、家庭料理が食べれる居酒屋だって」
「そこに行きましょう」と修は言った。
 いかほ食堂という店の前には「酒」という赤い提灯が下がっている。紫色ののれんをくぐり、引き戸を開けると、60代くらいの顔立ちの良い女性が一人でカウンターの向こうに立っていた。客は居なかった。靴を脱いであがる掘りごたつ席が4つある。カウンターの上にはぐんまちゃんが置いてあり、壁には居酒屋でよく見るハイボールを持った女優のポスターと伊香保祭のポスターが貼られている。
 女将は二人に「あら、いらっしゃい、カウンターに座ってね」と言った。カウンターの椅子は近くて、隣に座る浴衣姿の由美子の身体が触れる。由美子の身体から湯上がりの匂いがしてくる。
「どうしようかなあ」と言って、メニューを修と一緒に見るために由美子が身体を修に近づけた。浴衣の隙間から由美子の胸の白い肌の谷間が見えている。由美子はメニューを裏表見て「決めた!ニラ玉と檸檬ハイにするわ」
 それを聞いた修が「え、飲むの?」と言うと「当たり前じゃない、ここ居酒屋でしょ。飲まなくてどうするのよ。あれ、君まだ未成年?」「5月に二十歳になりました、でも入学した時から飲んじゃってますけどね」
 修は、大学に入ってから祖父とビールは飲んだことがあった。祖母がいると怒られたので、祖父と二人になった時だけだ。父とは一度も酒を飲んだことはなかった。
「それじゃあ、僕にはナポリタンとビールをください」
「じゃあ、最後に餃子、ここの餃子が美味しいって書いてあったし」
「そう、全部、私の手作り」
 女将は二人を見てニコニコしながら檸檬ハイと瓶ビールにグラスをカウンターの上に置いた。
 「乾杯」と二人はグラスを合わせる。小顔の由美子は形の良い唇をグラスにあてて檸檬ハイを飲んだ。
 「一人でやっていて、順番に作るから待っていてね。それまで、これを食べていて」と言って、大盛りのポテトサラダを出した。
 由美子はお通しはいらないのになと思ったが、由美子の怪訝な表情を読み取った女将は「お嬢さん、それは、サービスだから大丈夫よ」と言った。
 ポテトサラダに箸をつけて由美子は一口食べた。
「美味しい!何か味が違う」
 修も口に入れる。
「本当だ!美味しい」
「何が入っているんですか」
「愛情」
 女将は笑った。
 女将は二人を見ながらニコニコして「お二人とも仲が良いのねえ、学生さん?伊香保は初めてかしら」と言って最初にニラ玉を出した。
「ええ、始めてです」と由美子は答える。
 しばらく、由美子と修は部活の運営やお気に入りのフィギュアについて話していた。
 餃子が最後に出てきた。
 女将は懐かしい人でも見るような優しい眼差しで、さっきからずっと二人を眺めている。
「あなた達の時代は、いろんなところに行って、いろんな人に出会って、そしていろいろ経験して、そして大人になっていくのね。ところで、あなたたちどこから来たの」
「横浜です」と由美子と修は同時に言った。
 女将の表情が少し固くなった。そして、少し間を置いて
「私も横浜にいたのよ」と言った。
「そうなんですか」と、また修と由美子の声が重なる。
「もう20年も前……、そうか、少し待っていて」
 そういうと、女将は奥に入っていった。
「別れた私の子ども」といって写真を二人の前に置いた。由美子が「見ていいですか」と言って手に取ると、古い写真には小学生くらいの男の子と女の子が写っていて、裏には「夜空と星也」と書いてあった。
 「こんなこと、めったに人に話さないんだけれど、横浜から来たあなた達を見ていたら話したくなってしまったわ。のれんを下げてくるわね。
 女将はのれんを中にいれ、提灯の明かりを消した。
 「一本ビールおごるからおばさんの話しを少し聞いてくれる」と言って、
女将は瓶ビールとグラス三つをカウンターに置いた。女将は自分のグラスに手酌でビールを注ぎ、一気に飲むと語り始めた。
「私には酒飲んで暴れる父親がいたの。幼い頃から殴られたり、モノをなげられたり、中2の時には母が男作って出ていってしまった。その後は私が食事を作った。父は酒を飲まなければ優しかったからね。でも私は中学を出た後に家を出たのよ。父が追い出したの、っていうか父なりの考えもあったんだと思う。俺と一緒にいたんじゃ駄目になると酔う度に言ってた。その後は、いろんなところでバイトして、横浜の風俗でも働いたわ。
 17歳の時に10歳年上の売れない画家と出会ったの。そしたら18歳で双子を妊娠した。彼の親から反対されたけど私は産んだ。新しい家族を作りたかったからね。両親がそろっている暖かい友達の家族がうらやましかったしね。結婚は出来なかったけど彼とは5年間くらい一緒に生活したかな。私の肖像画も描いてくれた。あの5年間だけは幸せだった。でも彼、自殺しちゃった……。
 その後、私は彼の残した二人の子のために、昼間はスーパーで仕事、家に帰って夜はキャバクラに勤めて生活したわ。
 星也はしっかりしてたけど、夜空はちょっと知恵遅れみたいなところがあった。星也は私がいない時でも食事を作り、妹の面倒を見てくれたのよ。でも、やっぱり私だって女一人じゃ寂しくてね、少し羽振りが良い男と付き合い出したの。あの時……、子どもは、まだ中学生だった。星也と夜空で二人でやっていけると思い、子ども達が18歳になった誕生日にケーキを置いて私は家を出た。ちょうど親離れと子離れの年代だから、気持ちが男に向いたのね。でも、今から考えるとひどい母親。もう二度と子どもには会えないし、会ってはいけないと自分に誓って家を出た。今でも二人は横浜にいるのかとか、知らない街に住んでるのかとか、そんな事を今でも考えている……」
「おばさん、かわいそう」と言って、由美子は丹前の袖で涙を拭いている。
「おばさんは、どうして、この店開いたんですか」
「つきあってた男の故郷が渋川だったの。でも結婚は出来なかった。相手には妻子がいたからね。この店を開く2年前に彼は亡くなった。でも彼は、私の口座にずいぶんとお金を残してくれていた。そして伊香保でこの店を開いたわけ。うちのメニュー、家庭で食べるようなものばかりでしょ。何しろ中学時代から酒のつまみばかり作ってたから、味は評判いいのよ。今は素泊まり客も増えたし、旅館の夕食よりも、こういう味が好きな人が結構いて、なんとか生活できてるの、それと、あなた方みたいな若い人に会えるしね」
「苦労したんですね……」と由美子は涙声になっている。
「私にも父が居なかったんです、でも私は恵まれていると思う……」
 由美子の涙が止まらなくなっている。
「ほら、お嬢さん、これで涙を拭いて」
 女将はタオルを差し出し修の方を見て言った。
「ほら、隣の男子、こういうときは肩を抱いてあげなきゃ」
「でも……」
 少し躊躇しながら由美子の肩を抱くと、由美子は修の胸に顔を埋めて子どものように泣き続けた。
「さあ、10時になったわ。また伊香保に来るようなことがあったら寄ってくださいね」
「ええ、必ず来ます」
 修は由美子の肩を抱いて店の外に出た。そして夜空を見上げた。
 そこには、都会では見ることの出来ない沢山の星々が輝いていた。


第12話 夜空の場合 芦野信司(絵も)

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 沢野夜空  40歳
 沢野星也  夜空の双子の兄
 杉本絵里子 47歳
 杉本久枝  76歳(絵里子の義母)
 杉本浩一 79歳(絵里子の義父)

 レースのカーテンを通して夏の朝の日差しが窓辺の椅子に差し掛かる。夜空はその椅子に自分の部屋から運んできた大型の手提げ紙袋を置いて、中から最近集め出した巾着のコレクションを兄の星也に見せようとキッチンテーブルに並べた。駅近くにある「手作りボックス」というレンタルボックスで売っているものだ。夜空は40歳になるが、長い髪を後ろで一つにまとめ紅ひとつつけていない顔は少女めいている。
 星也はキッチンテーブルの反対側の椅子に座っている。ペットボトルの冷えたお茶を飲みながら視線をテーブルの上に走らせた。
「これを作っている人に会った事ある?」と星也が聞く。
「ないです」
 夜空は星也がなぜそんなことを聞くのかが分からない。夜空の興味を引くのは巾着であって、それを作っている人とは全く関係のない事だと思う。
 星也は、仕事で行っていたロンドンから帰ってきたばかりで疲れた顔をしている。
「シャワー使って、一眠りするから。朝食はいらない」
 星也はバスルームに向かった。

「星と夜空は切っても切れない仲だろう。星のない夜空なんてないし、夜空のない星なんてない。それは俺たちが双子で生まれたとき決められた関係なんだよ。だから心配するな。俺はおまえとずっと一緒にいるから」
 星也が病院のベッドの枕元で夜空にささやいたのは、18歳の誕生日から1週間が過ぎた日だった。
 18歳の誕生日の朝、「おめでとう」の文字が書かれたホールケーキを残して母はいなくなった。しかし、星也も夜空も驚かなかった。第一前夜も母はいなかった。夜の店に勤めていた母が二日ほど留守にすることがたまにあった。寝ている間にケーキだけ届けてまた出かけたのだろうと思っていた。
 星也は星也で、あまり家に帰ってこない。母が置いていったケーキを一かけら、朝食代わりに食べた後は「あとは夜空にやるよ」と言って出かけてしまった。星也は友人の家やバイト先に泊まって、1週間後に家に戻って来た。
 夜空はベッドに横たわっていた。痩せていた。瞼を明けてもぼんやりした光しかささない目で笑った。
「おかあさん戻ってこないし、冷蔵庫に何もなかったので、おなかすいちゃった」
 星也は救急車を呼んで、病院に運んだ。
「点滴を打って、一晩入院しましょう。そうすれば、回復しますよ」医師はそう言った。
「俺がもっと早く帰ればよかったんだ。ごめんよ。もう何処へもいかないから」
 星也は夜空の枕元で言ったのだった。

 星也は自室に入ったきり静かになった。もう寝てしまったようだ。夜空は、星也が家に帰って来しなにゴミ箱に脱ぎ捨ててしまったシャツが気になっていた。見るからに高級そうなシャツを無造作に捨ててしまったのである。夜空は、ゴミ箱からこわごわそのシャツをつまみ上げた。オーデコロンの香に混じって汗の臭いがかすかにただよう。生地の織り方がきれいで上品な感じがした。しかし、不思議なのは左胸のポケットの下と袖口に刺繍された「Genjirou」というネームである。夜空は、汚らわしいものでも見たように顔をしかめて、シャツをゴミ箱に押し込め、流しに走った。蛇口を開き、手指をごしごし洗った。
 星也の財布はいつも膨らんでいて、金払いがいい。一緒に出かけたショップで夜空がちょっと目を止めたりすると直ぐに買おうとする。夜空には迷惑なのだ。星也はそのお金がどのような仕事で得たものなのかを語ったことがない。夜空はわだかまりを感じている。以前も、星也の背広をハンガーに掛けようとしたとき、間違って落としてしまい、床に名刺入れの中身が散らばったことがあった。星也が慌てて集めていたが、その名も全く知らない他人の名前だった。星也の背中が急に遠ざかっていくようだった。一度、夜空が星也に聞いたことがある。すると、星也は言った。
「昼の星は見えないだろう? 見えない星は見なくていいんだよ」

星也は頭がいいし、家から出ない自分と違って外で仕事をしているので社会をよく知っている。だから、大抵は星也のいうことが正しい。しかし母親の失踪の事についてだけは、星也は間違っている。夜空はそう思う。
 母親がいなくなったことが分かってから、星也は勤め先や知り合いを訪ねて警察に行方不明者届を出したようだ。そして、夜空に言ったのだった。
「おかあさんは、もう帰ってこないと思う」
「どうしてですか」
「男の人とどこかに行ってしまったんだ」
「どこかって何処ですか」
「分からないよ」
「おかあさんは帰って来ます。星也と夜空を産んだおかあさんは神様のような人です。そんな不思議なことはおかあさん以外のだれもできません。誕生日のケーキに『おめでとう』と書いてありました。私たちは子供で、おかあさんはおかあさんです。だから帰って来ます」
 星也はそれ以来二度と母親の話題を出さなかった。

 午後1時半になって星也が自室から出てきた。一眠りしてすっきりしたようだった。
 星也が洗面台で顔を洗って出てくると、キッチンテーブルの上に、ラップしたスパゲッティの皿とサラダの皿が置いてある。夜空が用意したものだ。夜空は1時間前にいつもどおり昼食を終えていた。
 星也はフォークの先でスパゲッティを巻き取っては口に運ぶ。夜空はテーブルを挟んだ対面の椅子に座って、その様子を見ている。星也が、口を動かしながら夜空に訊いた。
「それで、巾着の何がおもしろいんだい」
 すると、夜空は待っていましたとばかり横の床に片づけていた大きな紙袋から巾着をひとつ取り出し、「CHAE☆CHA」のロゴを指さした。
「ここに星があります」
 星也はもう少しで口の中のスパゲッティを吹き出すところだった。
「ほんとだ。小さな星がある。ずっと前に缶ビールを集めていたときも、星を探していたものね。でも、あの星には夜空が見つからないと言ってたよね」
「MONOの消しゴムを集めたときは夜空だけがあり星はありませんでした。缶ビールを集めたときは赤や白や金の星がありましたが夜空はありませんでした。星と夜空は一緒にあるはずなのにおかしいです」
「そうだよ。おかしいね」
 星也は大きく頷いた。
「それで、この巾着に夜空はあったかい?」
「わかりません」
 星也は黙ったままスパゲッティとサラダを食べ終えると、皿を流しで洗った。そして、また元の椅子に座って夜空を見た。
「巾着作っている人に会ってみないか」
 夜空はかぶりを振った。
 夜空は他人と話をする時、極度に緊張する。星也なら安心しているのでしゃべっても大丈夫だが、他の人には慣れることが出来ない。夜空だって他人に気に入られたいとは思っている。だからしゃべる前には微笑もうと思う。しかし、しゃべった後の失敗を思うとその恥ずかしさで微笑もうとした唇が震えてしまう。無理にでもしゃべろうとする。すると唇が変に尖ってしまって、鳥の鳴き声のようなけたたましい音が喉の奥から弾け出るのだ。人は怪訝な表情となり、夜空ははずかしさのあまり下を向く。いつも同じ失敗を繰り返す。それでも誰かと話さなければならない時がある。そのときは、微笑まないようにしている。微笑まないで話すことは、わりと簡単だ。少しどもるくらいだ。
 星也は、機会がある度何とか夜空を他人に会わせたがる。何度夜空が失敗しても気にしていない。訓練だと思っていればいいんだよと慰めるのだ。
「きっとこの巾着を作っている人はやさしい人だよ」
 夜空はかぶりを振る。かぶりを振ったが、何度か星也と同じ様な会話をしたのを思い出した。星也がこうと決めたときの執拗さは夜空が太刀打ちできるものではない。夜空にとって、この世は星也がいなければ生きていけない世界であることわかっている。星也はいつもやさしい。やさしいが、自分の意志はまげないのだ。
「巾着の星のことを訊いてごらん。夜空のことも訊いてごらん。きっと答えてくれると思うよ」
 星也は今日にでもレンタルボックスに行ってみたいと言った。
 夜空は、椅子に座ったまま上体を前後に揺らしている。口の中で「レンタルボックス」とつぶやきながら、夜空は困っていた。今日はそんな予定はなかったからだ。
「無理です。予定のないことは出来ません」
「そうか、そうだよね。予定にないことはできないよね。ところで、今日の予定は何かあるの」
「今日は食べ物の買い出しの予定があります」
「どこの店か決めているのかい」
「いつもの店。駅の傍のスーパーです」
「それってレンタルボックスが入っているところだよね」
「そういえば、そうです」
「じゃあ、買い物がてらレンタルボックスで俺が巾着を買ってやる。いいね」
 夜空の上体の揺れが静かになり、上目遣いに星也を見た。夜空はにっと笑い顔を作ってみたが、やっぱり口角が震えてしまい失敗した。うつむいて目をしばたたかせ、ついでに横目で部屋にかけてある時計を見た。
「2時30分に出かけます」夜空は無表情で言った。
 
 スーパーでの買い物を終えた夜空は、バッグを両手で持ったままレンタルボックスの入り口に立っている。バッグの中には星也に買って貰った小さな巾着も入っていた。ショップの中では先ほどから店長と星也が立ったまま何事か話している。星也が店長からもらった紙にペンを走らせている。そして、ようやくショップの入り口まで引き返してきた。
「お待ちどうさま」
 星也はそう言って夜空の手から買い物バッグを引き取った。そして巾着だけを夜空に渡した。星也は、ショップ内に目をやり店長に黙礼した。店長は慇懃に礼を返してきた。
 
 翌日の朝、キッチンテーブルの上に置かれていた星也のスマホが鳴動した。星也は、登録されていない電話番号が表示されているのを見て一瞬眉間に神経質そうな縦皺を寄らせたが、急に思いついたように立ち上がった。耳にあてたスマホに「はい、私です」と返事しながら自室に行ってしまった。
 夜空はぼんやり窓の外を眺めていた。小さなマンションだが、五階は最上階であり眺望が開けている。母親は高いところが好きだった。この窓を眺めながら夜空は母親がいなくなった理由をいくつも考えたものだ。事故に遭ったのかもしれない。さらわれたのかもしれないとも考えた。星也との折り合いが悪かったのも事実だ。あるいは自分が障害を持っているせいなのかもしれないという考えも頭に浮かんだ。
 母親の思い出はよく暴れていたことだ。酔っぱらって帰ってきた夜など、急に機嫌が悪くなり星也を叩く。中学生ぐらいになると、星也は母親に叩かれても泣かないようになり、頬を突き出して「もっと殴れ」とドスの利いた声で迫るようになった。そのくせ母親に手を出すようなことは決してなかった。そんなとき夜空は部屋の隅で耳を両手で塞ぎ縮こまっていた。母親の甲高い声が耐えられなかったのだ。でも声を全てシャットアウトできる訳ではないので、諍いが長く続いたりすると、夜空の体が震え出す。顔から血の気が引いていくのがわかる。吐き気がして、気持ちの悪い汗が体中から吹き出す。夜空の異常に気づいた二人が諍いを止めて、夜空に駆け寄ってくる。そんなことが、何度もあったのだ。
 星也と母親がよく外泊するようになったのは、星也が高校二年のころからだ。夜空は一年生で不登校になり、家にこもるようになっていた。
 でも、こうして窓を見ていると、夜景が好きだった母親の後ろ姿が懐かしく浮かんでくる。振り返ったときの笑顔。シャドウの濃い大きな目を細めて艶やかな唇で夜空に「こっちに来てみなさい。いい景色よ」と手を伸ばす母親がいた。そんな母親が、いつか玄関のドアを開けて入ってくることを夜空は願った。夜空の想像の中では、22年前と変わらない母親がベージュのスーツ姿で帰ってきて、玄関にハイヒールを脱いで部屋には入ってくるのだ。母親は微笑みながら夜空に近づく。何と声をかけたらいいのだろう。そして、母親も何というのだろうと夜空が思うと、母親の幻影は消えてしまうのだ。
 長い電話が終わったらしく、星也が自室から出てきた。
「夜空。巾着を売っている人から電話があった。巾着を実際作っている人はその人の義理のお母さんだそうだ。今腰を痛めているらしくこっちには出て来ることができないらしい」
 夜空はぽかんとして聞いていた。星也の言っている意味がつかめなかった。
「でもね、おまえが巾着をよく買っている大事なお客さんだとわかって、おまえを自宅に招待したいそうだ。俺も一緒について行くことにした。明日、2時に行くことにしたよ。予定しておいてね。場所は菊名」

 菊名駅の改札を出た直ぐのところに、中年の女性が立っていた。星也が足早にその女性に頭を下げながら近づいて行った。夜空は、騒音を遮るためのヘッドホンを頭にのせていた。
「お言葉に甘えまして、押し掛けてしまいました。昨日電話いただきました沢野です。今日は本当にありがとうございます」
 星也は後ろを振り返り夜空を手で招いた。近くまで来た夜空に対し「さあ、挨拶だ」と言った。夜空は、星也の口元を見つめ、耳から外したヘッドホンを首にかけたまま目の前の女性を上目遣いに見た。
「夜空です。こんにちは」と頭をちょこんと下げた。そして、素早くヘッドホンを耳につけなおした。
「杉本です」
 女性は晴れやかな笑顔を星也に向けた。現れた男性があまりにハンサムだったので驚いたという表情である。そして、その笑顔のままに夜空に対してちょっと首を傾げる挨拶を送った。
「電話で話した妹です。小さいときから障害があり、自分の興味のあることしか心を開きません。それで、今はまっていますのが、あなたとあなたのお義母さんがお売りになっている巾着なんです。妹が外の世界とつながりをもてることは滅多にないので、こうして厚かましく出かけてきたところです」
「いえ、こちらこそ光栄ですわ。義母も大変喜んでいて、腰さえ丈夫ならどこにも行けるのにと残念がっていました。でも、うちの巾着のどこがそんなに気に入ってくださったのか。そこが不思議ですね」
「まあ後で本人の口から答えがでると思います。どうぞ驚かないでくださいね。僕は驚きましたが」
 女性はウエーブのかかった前髪を触って星也を見上げた。
「それは楽しみですね」
 女性はそう言いながら東口出口の方へ歩みを進めた。
「お義母さんとはご一緒にお住まいですか?」
「いえ、家は片倉町です。バスで妙蓮寺まで来ますので、菊名は近いんです」

 杉本家は昭和レトロの落ち着いた作りで、老父婦だけの生活には広すぎる感があった。夜空は玄関の中に入るなり帽子を脱ぐようにヘッドホンを取って、背から下ろしたバッグにしまった。家は静かだった。夜空はそれがうれしかった。
「お義父さん、お義母さん。絵里子です。お客様をお連れしましたよ」
 女性が、家の奥の方へ声をかけた。
 廊下の奥の扉が開き、老人がこちらに来かけたが、歩むのが億劫らしく「こちらへ、どうぞこちらへ」と言ってそのまま引き返した。
 そこは使い込んだ感のある茶の間であった。老人と老婆がいた。老婆は腰をいたわってか畳に据えられた椅子に座っていた。真ん中に卓がある。星也と夜空は坪庭に面した窓側の座布団を勧められたが、あまり和室に馴染みがない二人が困惑していると、老人が「どうぞ気楽にあぐらでもかいてください」と言った。
 星也があぐらを組むと横で夜空もあぐらを組んだ。
 いつもは如才ない星也もゆったりと微笑んでいる老人夫婦を前にして、なんだかぎこちない挨拶をしてしまった。
「双子だそうですね。美男美女で仲がよくていいですね」
 老婆がそう言った。
 中年の女性が、場を盛り上げようとレンタルボックスの売れ行きがいいことなどを持ち出したが、夜空が黙ったままでいるので、気づまりな雰囲気は抜けなかった。
 夜空が上体を前後に揺らし始め目を伏せているのを見た老人が言った。
「そろそろ、私の散歩の時間だな。どうぞ気兼ねなくゆっくりしていってください。おばあさんは、あなたが来るのをとても楽しみにしていたんだよ。だから、思っていることはなんでも自由に話していいんだよ」
 老人はそういうと、部屋の隅に置いてあったディバッグを肩にかけながら部屋を出ていった。
「ここ静かです。私好きです」
 夜空が突然言葉を発した。夜空にとっては、星也以外の男の人と同じ部屋にいることだけでも緊張するのだ。そして、夜空は自分が今いかに心地よい思いでいるかを言いたかったのだ。上体を揺らすことも止めていた。
 老婆が言った。
「今日は私を訪ねて来ていただいて本当にありがとう。私が作った巾着をいっぱい買っていただいているんですってねえ。それもとってもうれしいです。それで、何か私に聞きたいことがあるの?」
 夜空は目を大きく見開いて、きょろきょろとよそ見をし始めた。首まで回して横を向いた。老婆が問いかけた相手がどこにいるのだろうかと探すような仕草だった。
 老婆がさらに訊ねた。
「あなたは私の巾着のどこが好きですか」
 夜空の顔が晴れ晴れとなった。隣に置いていたバッグからヘッドホンを取り出し、次にひとつの巾着を取り出した。夜空は、その巾着についた小さな星のマークを得意そうに示した。
 老婆と中年の女性は顔を見合わせた。
「あなた、そのマークが好きなの」老婆が訊いた。
 夜空は頷いた。そして、涼やかな声で言った。
「この星に夜空はありますか?」
「えっ?」中年の女性が自分の耳を疑うように声を発した。
 少し無言の時間が流れた。
「驚かしてすみません。妹が言おうとしていることは解説しないと他人にはわからないことです。いきなり見ず知らずのお二人に話すようなことではないのですが」と星也が声をはさんだ。
 星也は自分たちの母親が突然いなくなったこと。その時自分の不注意から社会に適応できない妹を飢えさせてしまったこと。そして、星という自分の名前と夜空という妹の名前のようにいつも一緒だと誓ったことを話した。
「妹は、22年経った今も母親が帰ってくるのを待っているんです。母と子が一緒にいないなんてあり得ないことと思っているんです。そして、いつも一緒だって言った僕も、実際は仕事があってたまに戻ってやるのが関の山で。いつも僕の帰りを待っている。だから、星を見るとどこに夜空があるかと探すのです。星と夜空がばらばらなんておかしいと思っているのです」
 星也が話している間、夜空は目をきらきらさせて部屋のあちこちを見ていた。自分の言いたいことを星也がちゃんと伝えていることがうれしかった。
 暫くして、老婆が言った。
「夜空はあるわよ」
 そして、夜空が持ってきた巾着のマーク「CHAE☆CHA」を指で示した。
「ここにあるチャエチャというのは『久枝』という私の愛称なの。星のまわりにちゃんとあるでしょう。私もあなたと同じ夜空なの」
 夜空がうれしそうな顔をした。その顔を見た星也が驚いたのだった。
 夜空が、老婆に微笑んだ。
「あなたも、夜空ですか。私は、ずっとおかあさんを待っていますが、あなたも誰かを待っていますか」
 老婆は不意を突かれたようだった。暫く自分の胸の内を探っているようだった。そして、夜空の目を見据えてはっきり言った。
「ええそう、私も遠くへ去った娘を待っています」
  

第11話 ──の、場合。 かがわとわ

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  内容構成の都合により、登場人物は末尾で紹介します。

 ラウンジに入って来た女が、こちらに向かってくるのが見えた。彼女が俺に気づく前に、雑誌を広げて顔に乗せた。椅子を素早く後ろに倒し、眠りこけているふりをする。パスポートをサイドテーブルに乗せたままなのは、いいカモが現れたら小道具に使うためだ。ミディアムボブの片側を耳にかけたアジア系の女。おそらく日本人だ。同じ便の羽田行に搭乗する確率が高い。妙に深刻な顔をしていた。──釣れるかも知れない。靴音が近づいて来て、俺の左側で短い間止まった。左袖口のネーム刺繍を見ているとしたら、狙い通りの展開になる。ここは空港会社専用ラウンジなので、入室可能なカードを持つということは、ヘビーユーザーだ。ビジネスウーマンか、うまく行けば旅行好きなアッパークラスの女。
 隣のテーブルの椅子に場所を確保するような音に続き、また靴音が去る。そっと雑誌を持ち上げて確認すると、ワインセラーの方に向かうボブカットの後ろ姿があった。ふたたび雑誌で顏を覆い、頭の中で手順を確認する。女が戻って来て座る。俺は頃合いを伺って、肘でパスポートを落とす。「落ちましたよ」女は、俺の肩を叩いて渡すだろう。「ああ……どうも」寝ぼけを装って受け取る俺。「すみません。起こしてしまって。でも、パスポート……」と、女。「ついうとうとしてしまって。パスポートを出したままなんて、不用心極まりないなあ。助かりました」爽やかに笑う俺。普通の女なら、この笑顔にやられて言葉を返して来る。「日本のかたなんですね」「あなたも?」「ええ」「僕は九時四十分発の羽田行です」「あら、私もです」──と来たら、あとは金づるになるかどうかの見極めだ。空港でのロマンチックな出会いの演出。
 ──女が戻って来たようだ。グラスを机に置く小さな音。しばらく静かだったので、そろそろ行動に移ろうかと思ったところへ、バッグから何かを出すようなガサガサした音に続き、話し始めた。──誰かに電話をしているらしい。
「実はヒースロー空港。日本に一度帰るのよ」
 よし。日本人だ。同じ便と考えていい。声音に甘さはないので、若くはないだろう。ちらりと見ただけだが、たぶん俺より年上。年齢はどうでもいいのだ。金を持っているなら。俺は耳を欹てる。と、そのうち「別れるつもり」「愛人に子ども」など、好都合な言葉が続けて発せられた。俺は雑誌の下で薄く笑った。こういう状況の女は、簡単に落ちやすい。このあと会話に持ち込み印象づけて一旦離れる。羽田の荷物受け取りレーンでさりげなく近づいてまた……。
「これからプロバンスに行くわ」
 ──えっ。何だって? 
「泊まる所を確保して欲しい」「すぐにインターネットで予約してみる」
 興奮気味の早口に変わった。──日本に帰るんじゃなかったのか? 恐ろしく気まぐれな女だ。
「では、後で」
と言ったあと、検索を始めたらしくぴたりと静かになり、しばらくするとまたガサガサと音がして再び静かになった。
 俺は、ため息をついてむっくりと起き上がった。隣のテーブルには飲み残した白ワイン。
 ──運が良かったな。俺につかまらなくて。やれやれだ。スーツの上着を乱暴に羽織る。
「落ちましたよ」
 脇を通った爺さんが、パスポートを拾って渡してくれた。このパスポートは期限切れでパンチ穴処理されたものを、加工してそれらしく見せた小道具だ。うまく穴を埋めてあるので、ちょっと見にはわからない。それこそ盗まれて悪用されないように、俺の情報が入ったページは抜いてある。本物は、サイドバッグの中。シャツの袖口に刺繍された「Genjirou」は偽名だ。去年の貢ぎ女と会う時に使っていた名前。あの女もいろいろなものをくれたが、オーダーメイドのワイシャツをつくってくれた時に、名前を入れられたのには参った。「左身頃に名前を入れるのは、正統なお洒落よ」だと。基本、同じ名前は二度と使わないが、今回帰国時にこのシャツを利用して遊んでから処分するつもりだった。「ゲンジロウ? ああこれは去年亡くなった兄の形見のシャツなんです。ロンドンに行きたがっていたものだから」と、愁いを滲ませて目を伏せれば──。
 嘘なんて、いくらでもつける。 

 十二時間弱の搭乗後、羽田からエアポート急行と根岸線を乗り継いで東神奈川に着いた。ポケットからハンカチを出して、汗を拭う。朝の七時前だというのに、日本は蒸し暑い。ロンドンは乾燥していて、朝夕は涼しかったのでこたえる。六月半ばに日本を発って一か月ちょっと。直近のスポンサーを見限ったあとのバカンス。これまでに何人利用しただろう。途中から数えるのをやめた。金を持っている女でなければならない。金を調達してくる女はだめだ。下手に会社の金を横領して流されたりすると、俺が危ない。いわゆるマダム系の女に近づくのが一番楽だが、案外地味な独身年増が金を貯めこんでいるものだ。この手の女は、初めはすごく警戒するが、いったん箍が外れるとこちらが引くほどのめり込んで来る。──小さいころから、俺はモテて来た。同年代からは当然、同級生の母親や、近所のおばさんからも。「可愛い」に始まり、「カッコイイ」「ジャニーズ系」「イケメン」「王子」などと形容された。ずっと「いい人」を演じて来た。容姿に天狗にならずにいることで、更に評価が高くなった。女を金づるとして利用するようになったのは、十八の時に、母親が失踪してからだ。父親はもともといない。金持ちおばさんたちの「若いツバメ」となって、女をATMにしたわけだが、そのうち毎回名前を変えることに快感を覚えた。長くて半年スパン。近隣で「仕事」はしない。適当に吸い上げたら、突然消える。そのほうが俺のためでもあり、女のためでもある。金持ちとプライドが高い女は追って来ない。
俺の本名は星也(せいや)という。周囲から「あなたにぴったり」と言われ続けた鬱陶しい名前。さすがに俺も四十だから「若いツバメ」というわけにはいかぬが、金を出してくれる女はまだまだいる。女が俺を見る時の浮かれた目は変わらない。面(つら)さえ一級なら簡単にこなせる仕事と思ったら大間違いだ。頭を使って騙す。心を操ってまやかす。フロイトも言っている。「言葉はもともと魔術でした」ってな。狙う女の願望と欲望に合ったルアーを駆使し、引き上げる。どこまでもリアルな演出が必要。ちなみに偽名でいる時は、「僕」か「私」を使う。女に合わせて変える。「俺」は使わない。
駅から徒歩で十五分の賃貸マンションに着く。エントランスで、スマホから妹に電話をかけた。
「夜空(よぞら)、帰ったぞ。今、上がる」
「何分ですか。何分たったら来ますか」
 エレベーターのタイミングがよめないので、現在時刻を確認してから、多めに「四分」と答えて切る。箱は一階に来ていて、俺は五階の部屋の前でちょうど四分経った時を見計らってドアチャイムを押した。我が家のドアチャイムは、いわゆるピンポン系の音ではない。夜空はその音が苦手だからだ。チャイムとサイレンの音はとても嫌がる。耳をふさいで固まってしまう。大きな音や、特徴的な音はだめなのだ。チャイムは、雀の鳴き声に加工してある。ちなみに俺たちのスマホの着信音も雀だ。
「星也、お帰りなさい」
 長い髪を後ろでひとつにまとめた、化粧っけのない顔が現れる。
「ああ、エアコンが涼しいな」
「23.5度です」
 夜空のこだわりの室温だ。喉が渇いた。何かある? と言いかけて、「冷たいお茶のペットボトルはある?」と声をかける。具体的に言わないと、夜空は困ったように眉根に皺をよせるのだ。双子の妹の夜空とは二卵性なわけだから、普通の兄妹程度に顔が似ている。俺のほうが美形であるが、夜空にはどうでもいいようだ。彼女はひとりでいることを好むので──というか、集団の中にいることが苦手で人とうまく関われないので、働いていない。夜空と同じ傾向を持っていても、周囲の理解を得て、立派な仕事をしている人はたくさんいるが、夜空には夜空のやり方があるので、それを乱さないようにしている。自分で納得したことでないとパニックを起こすが、俺が頻繁に家を空けても平然としているのは、ありがたい。出かける時には「仕事に行ってくる」とだけ言う。「仕事に行く」イコール「いなくなる」というルールと、「何時に帰る」「何月何日に帰る」とはっきり告げるルールを決めていれば大丈夫なのだ。ふたりの生活は、俺が女たちからゲットした金でまわっている。俺がどうやって金を稼いでくるか、夜空は知らない。そもそも興味がないのだ。曖昧な表現を受け止められない夜空に、適当な説明は出来ない。
 カフスを外して、キッチンテーブルに並べ、脱いだワイシャツをゴミ箱へ突っ込む。カフスは自分で買った。ロンドンでは、ヒースロー空港から地下鉄で一時間のイズリントンで過ごした。ロンドン中心部に隣接する緑と水が豊かな街。「仕事休み」の場所として最高だった。駅前のアッパー・ストリートから一本奥へ入った細い路地では骨董市が開かれていて、そこをぶらついていた時にこのカフスを見つけた。アンティークの宝飾品を扱う店の、安売りワゴンにあったのだ。ウエッジウッドの陶器カフス。年代ものではなく、ただの中古品だ。薄いブルーの地に、白い帆船がデザインされた四角形。縁取りは金色でなかなか洒落ている。16ポンド91ペンス。安く手に入れた。この通りで、日本の女が声をかけて来た。通りの近くのコミュニティーガーデンを抜けた先に「LITTLE ANGEL THEATRE」という古い人形劇場があり、その近くの「操り人形工房」で働いているという。単身で修行に来ているので、日本人らしき人を見たら嬉しくて声をかけるのだそうだ。三十代後半と思われる目のキラキラした女で、「良かったら人形劇を観に来てくださいね。私の創ったコが出ているんです。帰りに工房に寄ってください。人形の操り方見せますよ」と言うので、「へぇ。是非。明日、行ってみますよ。公演の時間は?」と、彼女の瞳を覗き込んでやると、黒い瞳孔がぽわんと開くのが見えた。翌日、観劇の途中で席を立ち、帰りに工房の窓から覗くと、奥のほうで電動カッターに木片をあてがっている姿があった。彼女はまだ俺が劇場にいると思っているだろう。こちらに気づかぬうちに、「悪い男に操られるなよ」とひとりごちてその場を去った。彼女とは、今後一生会うことはないだろう。それを決めるのは俺だ。また会えるかもしれない、会えるはずと思っている女の気持ちを裏切るのが好きだ。日本の「仕事」で利用した女たちから去る時には、女が心待ちにするイベント当日を狙って突然消えて来た。消える前日に「明日が楽しみだね」と忘れずに声をかける。そう、俺たちの母親は、ふたりの誕生日の朝に目が覚めたらいなくなっていた。茶の間のテーブルに、やけに大きなホールケーキが乗っていて、チョコレートで文字が書いてあった。
「おめでとう」

 夜空が自分の部屋に消えたと思ったら、大型の手提げ紙袋を持って来て、中から次々に布をキッチンテーブルに並べ始めた。
「これは……巾着だな。今はこれを集めているの?」
「はい」
 大小様々、色とりどりの巾着を左端から小さい順に並べている。一列目が終わったら、二列目へ。小から大へ。きちんきちんと並べていく。今度は、巾着か。夜空は同じ種類の物を突然集め始める。最初はMONO消しゴムだった。おなじみのラベルだけで、五種類のサイズが出ている。夜空は文具屋でそれを知って、ミニサイズから特大サイズまで全部揃えて、何度も何度も大きさ順に並べることに没頭した。使わずに、ただ並べる。使ったら形が変わってしまうから。同じラベルで回転繰り出し式やノック式などがあることがわかり、喜ぶだろうと買ってやると、そっちには見向きもしなかった。角型でなければならなかったらしい。各メーカーで出している缶ビールシリーズを135㎖缶から順に500㎖缶まで四種類揃えて順に並べることにも嵌った。──中味は飲まないくせに、スーパードライだの一番搾りだのヱビスビールだの、ミニミニ缶からロング缶まで順に並べて見入っていた。
「なぁ、同じ模様でなくていいのか?」
 巾着のデザインがバラバラなので、不思議に思って訊ねると、
「同じです」
 巾着に小さくついているロゴを指さした。「CHAE☆CHA」とある。
「どこで買ってるの?」
「駅の近くのビル。手作りボックスで買います」
スマホで検索してみると、確かに駅近の総合スーパーのビルの中に「手作りボックス」という店がある。婦人フロアの角。俺たちがここに越して来たのは五年前だが、夜空はこの店の話をしたことがないし、巾着への執着もなかった。最近出店したのだろうか。それとも巾着を販売する人間が最近現れた? どんな女が作っているのだろう。いや、男かもしれない。チャエ・チャー、か。
「これを作っている人に会った事ある?」
「ないです」
 まあ、どうでもいい。レンタルボックスで手作り品を売るしょぼい女など──よもや金持ちであっても絶対に手を出さない。地元で「仕事」をするような馬鹿じゃない。夜空と共有する世界では、俺は本名の沢野星也を名乗る。
 夜空。大切な俺の妹。俺は夜空と生きていくために夜空の知らないところでたくさんの嘘をつく。夜空は、決して嘘をつかない。嘘のつき方を知らない。
「好きなだけ、巾着を買え」
 俺は、財布を鞄から出すついでに、夜空の頭をごりごりと撫でた。
「痛いです」
 夜空は、無垢な顔をしかめて俺を見上げた。


登場人物
 沢野星也 四十歳
 沢野夜空(星也の双子の妹) 四十歳
 操り人形工房の女
 香苗Gilbert と思われる人物