第10話 香苗のミストラル 麻如莉樺

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登場人物 
香苗Gilbert  48歳(浩一と久枝の長女)イギリス在住
ジャックGilbert   52歳(香苗の夫)旅行会社勤務(倒産したため無職)
杉本久枝(香苗の母親) 小林渚(香苗の幼馴染)
杉本浩一(香苗の父親)
アニー・ガブリエル(香苗のロンドン大学時代からの友人)フランス在住
源次郎(ヒースロー空港で酔っ払っていた日本人)ブェロニク(ジャックの愛人)


香苗はロンドンのヒースロー空港にいた。これから日本に帰るつもりで全ての支度を整えてロンドンの住み慣れた家を出てきた。二度と戻らない覚悟を伴っていた。必要な荷物は一部屋にまとめて梱包もして来た。

愛するジャックへ
廻る、季節を共に過ごせた日々に感謝します。
貴方の子供が出来た愛人の存在を知り、会社の倒産と同等の辛い立場に私も追い込まれてしまいました。貴方の優しい声が耳を澄ませば聞こえるのかと日々に悩み、苦しみました。
どうしても許せない裏切りの事実にどれほど目を凝らしてみても貴方との明日がみえなくなりました。そして今、人との繋がりは全てが生きているつかの間の事と思えるようになり、共に笑い合える時間の未来が消えて無くなりました。私は何も要らなくなりました。
俯いてしまった貴方の背中に羽ばたく翼を与えてくださいと最後に祈ります。  
後日、弁護士よりご連絡致します。         香苗。

━浩一に電話した日の事━
香苗は日本時間の6時に合わせて、父親の浩一に約束していたように横浜の菊名の家に電話を入れた。父親の声に涙が滲む。凍えた両手に息を吹き付けるように父親の声が香苗の心に温かさを呼び戻す。母の声が聞こえた。言葉にならない声が喉を詰まらせていく。気持ちを切り返して母親に「助けて」と伝えたかった。が、口から出る言葉は甥の修になってしまった。母が話しやすいからと思ったからだ。自分でも会話にならない事に長い疎遠の時間が高い壁を作っていると気が付いていた。「帰ってきなさい」と言ってくれた父親の声に素直な気持ちになれた。その声と同時に香苗は背後にジャックの気配を感じて電話を切った。浩一も電話を切ったようだった。今もなお、耳に残る両親の声が背中を這い上がり、つらい状況が切なさに変わる。
「お母さん、昔の子供のころの様に抱き上げて子守唄を聞かせてよ。生きるのが辛いよ。何時か言わなくてはと思っていたの。・・・・・・お母さん・・・・・・産んでくれてありがとう」自然に言葉が生まれてボソッと呟いた。同時に温かいものが雫となり足元を濡らしていく。久枝の言いそうな「だから、言わないこっちゃない」の言葉が脳裏に浮かんで涙が止まった。
「香苗、話がある」いつの間にか背後に佇んでいたジャックがいた。やっと起きてきたようだった。よく眠れていないのだろう。目元が腫れていた。ダージリンの爽やかな甘い香りが漂うリビングでジャックのために多めに入れたティーポットがすっかり冷めていた。
「もう話はない」涙を手で拭い振り返らずに言う。
「これからどうするのか、話合いをしたい」苦しそうに声が擦れていた。絞り出した言葉なのだろう、其のあとの英語が聞き取れない。
「生まれた子供と愛人と生きればいい。私は冷めてしまった感情で一緒にロンドンでは暮らせないし、居たくもない。一度日本に帰ろうとも考えている。ジャック、貴方とはこれ以上は話しあっても先は見えない。お互いに築いた財産等は弁護士を入れます」感情表現が英語では難しく、香苗は伝えられない気持ちにいら立った。いつのころからか忘れたが、喧嘩をすると香苗は日本語でしゃべりだしていた。ジャックも聞き取れないほど早く英語でしゃべる。
「・・・・・」原語の混迷もあり、もどかしさにジャックも手を広げ肩を上げた。香苗は割り切ってはいたのだが、今まで経験のない感情が絡みついた。怒りなのだろうか。眩暈にも似た不思議な想いがその中で湧き上がる。暫くすると愛人への嫉妬と共にその感情も消えてしまった。

━香苗は身体がメラメラと燃え上がるのではないかと思うほどの嫉妬を覚え、苦しんだ日を振り返った。━
ジャックのトーマスランドの会社が倒産をしてから月日は何の変化もなく季節だけが巡っていく。動かない状況の時間だけが止まったままだ。その間香苗は日本語教師として大学で収入を得ていたが、預金は減る一方だった。香苗が出かけた後ジャックは仕事を探しているのか、会社の再建のために奔走しているのか解らなかった。知ろうともしなかった。ただ、ただ、そっとしておいた。思いやりのつもりだった。せめて、休日にはいろんな話をしたいと香苗は予定を入れずにジャックからのアクションを待っていた。
日本びいきのジャックはロンドンの郊外でモネのスイレンの絵画のような小さな庭園を造り茶室を持った日本人の先生に茶道を習っていた。予定の時間を仕事の合間に作り、お稽古に通っていた。そこで仲良くなったフランス人の稽古仲間がいると知ったのは最近の事だった。「紹介したい。日本の着物を欲しがっている。僕のワイフは日本人と知って会いたがっている」と言われて、香苗はロンドンの郊外のレストランで一緒にランチをした。その帰り際に得体の知れない不信感に襲われた。駐車場でジャックの車と同じ車種、同じ色、同じカー・アクセサリーがバックミラーにぶら下がり、平行に並んでいる車があったからだ。気が付いた時に、ジャックの車はどっちなのか迷った。そしてその車の一台に彼女が近づいて行き立ち止まった。
「香苗さん、今度は日本語を教えてください。ジャックも教えてくれるけど」
「もちろん、この次は家に遊びにいらしてください。お寿司を作ります。焼き鳥はお好きですか」
「嬉しいわ、焼き鳥? ウィ、ウィ、大好きよ。ジャック有難う」と言って彼女はジャックとハグした後、隣に佇む香苗に軽くハグした。離れた後で、香苗は何度か嗅いだことのある体臭と香水の混じった香りだった。横のジャックからも嗅いだことのあるような、親密なにおいを感じた。走り去る車を二人で見送り家に戻った香苗は
「ねぇ、あの人と同じ車なのね」
「そうなんだ、偶然一緒で吃驚したよ」
「でも、色とアクセサリ―の日本人形も同じなのは如何ゆうご縁なのかしらね」
「ご縁って何? 」
「アー面倒臭いからこの次にね。私は少し仕事があるから」と初めてジャックの茶道のお茶会の友人と会った日の出来事を思い出した。
その日も香苗は朝からずっとジャックの帰りを待っていた。何度かスマートホンのジャックの電話番号に指が動く。が止めた。何か雲行きがおかしい予感がする。ジャックはお茶の会には行っていない気がした。もう夕方だ。長すぎる。ふと香苗は連絡し合えるようにと、連絡先を交換したジャックの友人、ブェロニクと言う名前を思い出し、眺めていたが、思い切ってタップした。
「アロー、貴方は誰?」出た!香苗は身構えた。最初は片言のフランス語で、話した。すると向こうが英語で
「香苗さんね。今ジャックは帰りました」と言う言葉を聞いた。
「お世話様でした。いつも長い時間楽しませていただいています。ジャックが帰ってくるといろいろお話しを聞かせてくれます。ところで今日は皆さまとのお茶会でしたか」
「ノン、ジャックだけです」
「えっ、如何ゆう事ですか」
「私たちのべビ―についてジャックと話し合っていました」
「えっ、えっ! もう一度お願いします。今なんとおっしゃいましたか」
「私たちのベビーが出来ました」香苗は慌てて電話を切ってしまった。
香苗は呆然として携帯を握りしめて眺めていた。汗ばんできた手の平が携帯を滑らせる。慌てて汚い物を置く様にテーブルに置いた。暫くして熊の様にリビングを歩き回った。思い当たる事が浮かぶ。「何時からなのだろう」頭の中で様々なジャックの行動の?を感じた時間やそれに伴う挙動不審な会話を思い返していた。どのくらいの時間を部屋の中でウロウロしたのだろう。ジャックの「戻ったよ」の声とドアの閉まる音に我に返った。香苗の側に歩み寄り「今、戻ったよ」と軽く頬をよせた。その時も確かに感じた香りが香苗の脳裏の中でブェロニクとつながった。香苗は慌てて弾けるように後ずさりをした。ジャックに今日はどこで何をしていたのか問い詰めたがお茶会に行ったとしか言わない。皆も一緒で賑やかで長引いてしまったと言う。ついに香苗は先ほどの電話の内容をジャックに告げた。ジャックは悪びれずに誰と誰とも一緒にいた。ブェロニクが話した事はジョークだと言う。押し問答が続いた。ついに香苗はもう一度ブェロニクと言うフランス女に電話を入れた。観念したのかジャックは椅子に座り直した。眼は虚ろになり肩を落とし足元を見つめている。
「ブェロニクさん、先ほどは失礼いたしました」
「どういたしまして、私も香苗と話が出来て喜んでいます」
「これからジャックに変わります。今後の相談をしていきましょう」
「有難う、香苗」と言う声を聞いて、スピーカーをオフに切り替えた。香苗はジャックにスマートホンを渡した。ジャックは部屋を移動して何か言い合っている。話し終えてリビングに戻りスマートホンを返すジャックに香苗は言葉が出なかった。「すまない」と、認めてくれれば良かったのだろうか。浮気だ、遊びだと言ってくれれば良かったのだろうか。ただ子供の存在はどうにもならないと感情が動くのを留めた。止めどもなく涙が溢れ出てくる。部屋中に響き渡る音楽を流したが香苗は身体中が燃えてしまうような嫉妬、ジェラシーに気が付き苦しんだ。そのジェラシーは身体の中で塊となっていた。慌てて家を飛び出した。行く当てもなかった。気が付くとTrainIineで、ライへの切符を求めていた。バスに乗りNorthiamの村に行った。イギリス南部イーストサセックス州にあるグレート・ディスクスターはイングリッシュガーデンそのものと言った色彩豊かな場所で、香苗のお気に入りの場所だった。敷地の中の花に囲まれて、気持ちを整理する。小さな小川も流れている。「植物はお互いに助け合って生きている。低木、蔓性耐寒性、根無し草、一年草、二年草、皆一緒に成長する」そんな言葉がガーデンの入り口にも書かれてある。その中でも競争は強いられるはずだ。たまたま、太陽の恩恵を強く受けて一つの花だけ大きく育った。隣にいたせいで同じ花なのに日陰の中で大きく伸びる事が出来なかった。それでも大きな花を咲かす力は背に取られた方よりはあるかもしれない。皆一緒に月日を重ねて大きなタペストリーの風景になるのだ。とガーデンの中で思った。他者のために自身を拒絶するのは辞めよう、人生をやり直そうと思えてきた。気が付くと霧が立ち込め飛び出したままの軽装が足下からの寒さを伝えていた。小雨も降り出しそうだ。「今夜は帰れない。どこかに宿を取ろう」坂道の多いライの街。アンティークのお店が、立ち上るドライアイスの様に霧で煙り出していた。心細くならない自分に怖いものが無くなった。たぶん失うものへの決心が生まれたせいなのだろう。ウインドウに顔を近づけて眺めて歩く。母の久枝の好きなパッチワークの布を思い出しイギリスのリバティ・プリントを買い求めた。
そこのお店で空き室を聞いてもらった小さなホテルに泊まった。
******
いつも、気が付くと心の中で母の久枝を求めていた。どのくらい話をしていないのだろう。いつから何も話さなくなったのだろう。ジャックと共に生きていく時間の中で渚だけが心の故郷になった。渚の真っ直ぐな性格と生き方が羨ましかった。正直に生きる事は何よりも友達としても正意が伝わる。「あるがままの貴女でいい」と言ってくれたあの日の出来事の後の保健室。香苗は成長していく日々に忘れた事は無かった。夜遅くの菊名の家の階下での両親のひそひそ話。聞き耳を立てた香苗は聞きなれない言葉に何か大人の世界のねっとりと張り付く不快なものを抱え込んだ。翌日知った内容に母親の女の部分を感じた。同性であることを拒絶した。その時から久枝には何も話さなくなった。だが、大人になった香苗は母親の限りない愛を感じている。ただ、久枝とは生きる時代も受けた教育も違う。同じ事を同じ土壌で喜怒哀楽は共有出来なかった。渚とは、高校は異なる場所に行ったが、よく話をし合った。出来事があると連絡をし合った。無慈悲な痛みを与えるのも他者だが喜びや希望を与えるのも他者なのだと二人で笑いあった。そして誰でもが抱える孤独にはたった一人で立ち向かう事を渚も知っていた。だからこそ少女から女に変わっていく日々に二人は手を繋ぎ一人ではないと伝えあった。少女時代の記憶が香苗の人生を根底でささえていた。深い友情を育んでいた。
香苗はロンドンで住み慣れていく頃から、日々何かあると心の中で久枝とも会話していた。「お母さん、私は今ジャックと乾杯したの。ほらジョッキの影が二つ。見える?このお店のビールはおいしい。お父さんと一緒に飲みたいのよ」と。

あの日から数週間が経った。ロンドンの空港で香苗は日本への便の時間を再確認してチケットを握りしめた。まだ、時間はたっぷりあった。手荷物しか持ってこなかったのでユニクロで当面の衣類を求めた。日本に帰れば、生活用品は何とでもなる。渚とも会える。当面の問題は洗礼を受けて結婚してしまった事だ。外務省にも行かねばならない。ジャックがプロテスタントであることが、キリスト教の規律の部分に於いては少し気が楽だった。弁護士が何処までやってくれるのか考えると気持ちが重たかった。香苗はゆっくりしようと待合室に入った。日本語の雑誌を顔の上に掛けてリクライニングチェアで眠り込んでいる男に目がいった。側の丸テーブルにはワイングラスや料理をつまんだ紙皿が置いてある。おまけにパスポートまで置いてある。ボルドー色だ。日本国籍だ。スーツの上着を抱え込んでいる。袖のカフスに目がいった。ウエッジウッドの淡いブルーの四角い小さなカフスがYシャツの色に渋さを感じさせていた。斜めにゴシック体で(Genjirou)源次郎と茶色で刺繍してある。男の職業や年齢や週刊誌の下に隠れた顔立ちを妄想している自分に香苗は気持ちが少し晴れているのを知った。これからどうしたら良いのか迷いが残っていたが覚悟が伴って気持ちが切り替わった。男の側の椅子で同じようにワインを飲みながら様々な想い出に暫く浸っていた。フランス人、日本語……ふとロンドンの大学で一緒だったフランス人の友人のアニーの笑顔が浮かんだ。アニーの片言の日本語の響きが好きだった。日本に繋がる誰かに話したくなりスマートホンをバックから取り出した。アニーの電話の番号を探してline電話をする。ジャックの友人でもあり、香苗とは共に学び合った仲間だった。
「アニー、元気? 」
「香苗? ええ、とても元気よ。私は今、プロバンスに休暇で来ているわよ」
「一度、行ってみたかったわよ。ニースも素敵だけどProvenceは知的な好奇心も刺激されそうね」
「香苗、今どこにいるの」
「実はヒースロー空港。日本に一度帰るのよ」
「ジャックと? ねえ、ジャックの会社、倒産したでしょ。彼どうしているの」
「電話では話は無理、とりあえず別れるつもりでいる」
「えっ、何故? 経済的な理由? 」
「実は愛人に子供までいる事が解ったの。あー、アニー……良かった。……話があるの。相談したい事があるの。如何したらよいのか解らず、ずうっと悩んでいるの。電話では話が出来ない。無理だわ。アニー…… 」
「……香苗、大丈夫? ネェ、日本に帰るのを少し伸ばせる? 飛行機はキャンセルできる? 」
「アニー、できるかどうかわからないけれど、やってみる。理由は何とでも言える。お金がかかってもいいから、これからProvenceに行くわ。どうしても絡んでくる始末の方法が解らない。後ろ髪が惹かれるの。こちらの問題を早く整理して身軽になりたい。相談したい人が居なかった。良かった。泊る所を確保して欲しい、お願いします。そうそうシャトーホテルか中世の修道院のホテルがいいわ。Provenceには多いわよね。一度泊ってみたかった。ロンドンからあのユーロスタ―とTGVで行くわ。すぐにインターネットで予約してみる。又、電話します」
「待っている、香苗。そうだ、セザンヌのアトリエで会おう」
「解った。レロープの丘ね。着いてから半日あれば行けるかな。では、後で」とlineを切った。
香苗はドーバー海峡の下を通るユーロスターをネットで調べ、オンラインで予約をした。TGVの新幹線もネットで空き状況を調べた。パリに着いてから高速鉄道のTGVに乗った。  紫色のシートがラベンダーを浮かべさせた。ジャックともフランスには休みの日に良く出かけた。シャンゼリゼの大通りの一つ裏の通りの小さなホテルが定宿のホテルだった。偶然に重なったある年のツール・ド・フランセ。その自転車競技が世界最大の自転車のロードレースと知ったのもジャックとの最大の思い出だった。凱旋門とシャンゼリゼの大通りを一周してゴールを目指し疾走する姿が焼き付いていた。ジャックは前日にフロントで聞いて飛び上がって喜んだ。次の朝、多国籍の人々が今か今かと待ちわびるシャンゼリゼの道路の前は時間を追うごとに人々で埋まり出した。あちこちでざわめく話声がドイツ語、フランス語、イタリア語、英語、が飛び交っていた。どこかで日本語も聞こえた。不思議な気分だった。日本語の聞こえた方に顔を向ける。どこかで母の久枝を探す自分に香苗は戸惑った。ジャックと建物のガードの鉄格子によじ登り通り過ぎる競技者を応援した。手が真っ黒になって洗っても落ちない。二人で笑いあった出来事も思い出された。その時購入した記念のTシャツと帽子をジャックは眺めるのが好きだった。 
香苗は思い出した感慨にふけっていると通路を駆けて来る少女が二人。金髪のカールが動きと共に揺れている。お日様の光を受けて金髪が輝く。ジャックの生まれてくる子供の成長の姿に重ねた。「きっと女の子なら可愛い」と思い、側を駆け抜ける少女にスマートホンを向けて写真を撮りたいと言ってみた。追いかけてきた母親が微笑む。香苗は少女二人との写真をその母親に撮ってもらった。

 香苗は美しいプラタナスの並木道を歩いていた。坂道も多い。噴水が小さな池の様にところどころにありお散歩をしているだけで楽しくなった。
水の都、エクス・アン・プロバンスに入った。香苗はアニーに電話を入れた。「明日12時にレロープの丘で」と約束をした。その日の夜アビニョンのホテルでこの地方独特のミストラル(突風)が吹き付けた。部屋の中で香苗は自分に吹き付けるミストラルは何時終息するのだろうと思った。何処からか黒ダイヤと呼ばれるトリュフの香りがした。母の久枝にトリュフ入りのチョコレートと一緒にイギリスのリバーティ・プリントを送ろうと階下に箱を求めて降りて行った。明日はセザンヌのアトリエでアニーに逢う。
香苗は高揚する気持ちで廊下に掛けられた「サン、ヴイスクトワール山」の夕日に輝く絵画を見つめた。

 アニーはロンドン大学の寄宿舎でルームメイトだった。卒業後、彼女はフランスの日本企業に勤めている。日本からの転勤組の重役もいて、何でも困ったことがあったら相談してほしいとも言われていた。香苗はこのプロバンスはフランスの様々な大学や、学校が通える地域で学生も多くいる事を知っていた。どこかで日本語教師も出来たらいい。アニーなら見つけてくれそうだった。ジャックとの別れにも時間が必要な事は判っていた。
「お母さん、もう少し待っていて。菊名に帰るまでお父さんを宜しく、ね」小さなチョコレートと布を入れた箱の中に香苗は手紙を入れた。


 

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posted by ご隠居とその仲間たち at 16:05Comment(0)小説

第9話 渚と久枝 黒崎つぐみ

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 次の日の朝9時過ぎにはアマゾンから手押し車が届いた。レンガ色のチェック柄だった。
「あら、いいじゃない」と久枝は上機嫌で押してみる。10時過ぎには、渚から「今日で良ければ、駅から100mほど歩いたところにある野菜レストラン『さいとう』の席が2つ空いたけどどうですか」と電話があった。早速手押し車の試運転だ。
「これがストッパーだから、止める時や座る時は必ずかけろよ。気を付けるんだぞ」と浩一に何度も念を押されて、久枝は久しぶりにおしゃれをして家を出た。
駅前通りは車が多い。菊名神社の手前と聞いていたので途中まで裏道を行った。体の重心がぶれても、掴まる所があるのは心強い。軽快に歩を進め、時間より少し前にレストラン前の駐車場に着いた。遠くから来たナンバーの車が止まっている。南仏風の洒落た建物が奥まったところに建っていた。「こんな所に昔からレストランがあったかしら」久枝は心弾んだ。
入り口近くの駐車場の空きスペースに手押し車を停め、ちょこんと座って渚を待った。
5分ほど店の外で待っていると、自転車で渚が現れた。
「中で待ってて下さればいいのに……」と言いながら、馴れた様子で店内に入っていく。聞くと、この店にもお酒を卸しているらしく、予約の取りにくい店として有名らしい。たまたまお酒の注文があった時に「ランチ2名とか、空いていませんよね?」と聞くと、「大丈夫ですよ」と席を作ってくれたという。遠くから来るお客さんが多いので、地元の人にバッタリ会うことも少ない。込み入った話をするには穴場かもしれないと、渚の配慮だった。野菜レストランというのも久枝は嬉しかった。地場産の野菜を沢山、いろいろな調理法で頂ける。レトルトの食事に飽き飽きしていた久枝にとって、何よりだった。ランチメニューも簡単なコースやセットになっている。周りを見ると30代、40代の若い主婦がワインなど飲みながら静かに話している。
「なんか、優雅な所なのね」そう言いながら背伸びしてしまうのは久枝の悪い癖だ。娘と同い年の渚を前にして、人生経験から得た知恵を伝授したくなった。
「翔平君、お店継ぐんだって? いいこと教えてあげる。個人商店の税金対策。お友達から聞いたんだけど。あのね、翔平君をあなたのお母さん、つまりゆう子さんの養子にすればいいのよ。戸籍上姉弟ってことになるわね。相続の時に翔平君にあなたと同じだけの相続分が入ると、翔平君もお店経営がしやすくなるでしょ?ゆう子さんも孫に継がせたいと思っているようだし」
料理を待つ間、得意げに話す久枝に
「こないだ、香苗からも同じこと、言われたんですよ。大丈夫です。うち有限会社にしますから。親子って似るんですね」とケラケラ笑った。渚はいきなり本題に入った。ランチの時間は1時間半。ゆっくりはしていられない。
「香苗は何も言わないんですか?」
「そうなの。私には素直じゃないのよね。どうしてかしら? いつからこうなっちゃったのか……」
「おばさん、覚えてないんですか? 中一の時のこと」
「何のこと?」
ポカンと虚ろな目をしている久枝に、話すべきか逡巡しながら渚は口を開いた。
「私たちが中学1年の最後の日、香苗の帰りが遅くなって、みんなが大騒ぎして探したことがあったこと、覚えてらっしゃいます?」
「ああ、良太君と夜になって帰って来た……」
「あの夜、香苗は夜中に目が覚めて階下に降りて行ったとき、おばさんとおじさんの会話を聞いてしまったらしいんです」
渚は声に出すのを躊躇ったのか、バックからボールペンを取り出し、テーブルの紙ナプキンに何かを書いて久枝に渡した。紙ナプキンは筆圧で少し破れ読みにくかったが、
「チ・ツ・セ・ン・ジョウ?」
声に出した久枝に、渚は慌てて「シッ!」と人差し指を自分の唇に当てた。
隣のテーブルの客と目が合った。渚は囁くような小声で続けた。
「私も香苗も初めて聞く言葉だったんです。次の日、香苗から『チツセンジョウってなあに?』と聞かれて二人で調べました。わからなかったので保健室の先生に聞きに行って、やっとわかりました。乱暴された女性に施されるというあれです。おばさんが『産婦人科でやってもらった方がいい』って言っていたこと。おじさんは『良太君を信用できないのか? それは香苗も信用できないってことなんだぞ』とおばさんに対して怒っていて……」
久枝は自分がそんなことを言ったことは記憶にない。しかし香苗が立ち聞きして渚に話したのなら、二人の記憶は確かだろう。背筋がこわばり、フォークを置いた。実際、後にも先にも久枝は娘を産婦人科に連れて行ったことがない。浩一に諭されたこともあるのだろうが、香苗自身、いつもと変わった様子もなかったので、次第にその日の記憶は久枝の頭から薄れてしまったのだろう。
「香苗はずっとお兄ちゃんの浩さんの受験勉強の付き合いで、テレビが観られないとこぼしていたんです。観させてもらえるのは週に一時間、『なるほど・ザ・ワールド』くらいだって。世界のいろいろな国には興味があったけど『進め、電波少年!』とかの話を良太から聞いて、良太の環境と自分の環境がすごく違っていると思ったらしいですよ。お兄ちゃんのお祝いを買いに良太に横浜までついてきてもらい、いろいろな話をしているうちに、元町まで来てしまって… ちょうどチャーミングセールをやっていて、そこで予算ギリギリでプレゼントが買えたって。元町から山手に抜ける公園で冒険している気分になって、山手に出たら洋館が建っていて…… ただで入れたから中に入ったらまるで外国に来たようだったと言っていました。とても楽しかったって。お腹が空いて、お金を使ってしまったので、中華街で良太に肉まんを奢ってもらったって」
久枝はその時の話を香苗から詳しく聴いたことがなかった。無言で兄浩に入学祝いのプレゼントを渡していた。キタムラ本店の包装紙を見て、元町まで行ったのか、と思ったくらいだった。それからも香苗との会話はなく、久枝の関心は浩の高校生活に移り、香苗は父親とだけ話すようになった。母娘の距離を縮めようとはしなかった当時の自分に初めて気づかされた。
香苗は香苗で「大人はそんな目で自分たちを見ているんだ」と気づくと、良太とも話さなくなってしまった。高校は地元を離れ私立の女子高を受験した。友達付き合いまであれこれと口出そうとする久枝に、前よりも一層反発するようになった。
「あら、前菜がまだ残っているからメインのお皿が出せないのかな?」
渚に言われ、慌てて食べた料理は味がしなかった。
「香苗、日本に帰って来たいみたいです」
「そうなのね。これからも何かわかったら教えてもらえるかしら……」
「おじさんにはちょくちょくお会いできるんで、お話ししておきます」
「そうなの? 」
ご馳走するという久枝の言葉に、甘えられないと
「割り勘で!」
渚は2000円を置いて、仕事に戻って行った。

久枝は手押し車を押して東急へ寄った。入り口のドアに写った姿をふと見ると、そこには年老いた背筋の丸い自分がこちらを見ていた。
家に帰ると「どうだ、美味かったか?」いきなり浩一が聴いてきた。久枝は無言で買い物した荷物を玄関先の手押し車から冷蔵庫に運んでいる。無言の人にはそれ以上話しかけない浩一だ。「荷物運ぶの手伝って」と言えない久枝との間に会話はない。久枝は浩一が放りっぱなしの手押し車を下駄箱の横に立てかけるのをぼんやり見ていた。