第8話番外編 香苗の電話 黒崎つぐみ

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登場人物
杉本 浩一 79歳 東急東横線・菊名在住
杉本 久枝 76歳 浩一の妻
ギルバート 香苗 48歳 杉本夫妻の長女 ロンドン在住
小林 渚  香苗(杉本夫妻の長女)の幼馴染
小林 翔平 27歳 渚の長男
(話題に上った人物)
杉本 宏  杉本夫妻の長男
小林 ゆう子 73歳 渚の母
宗次 良太  48歳  香苗の幼馴染
吉竹  杉本浩一の友人
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なぜ、番外編?
このリレー短編小説はあらかじめ共通ルールを決めて書き出しました。
〇主人公は前の回と必ず違う人にすること
〇一話完結にすること
〇途中で視点を変えないこと   などです。
今回、書く前に第5話で香苗からの電話が以前にかかってきたことを見落としておりました。
さらに第8話の最後が「香苗だ」と浩一が電話を取るところで終わっています。
賢い読者のあなたを煙に巻いてしまいました。そして番外編を書きました。 
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 浩一は、酒屋を継ぎたいという渚の長男・翔平と、紫陽花が咲き始めた蓮勝寺の境内で気持ちの良いビールを飲んだ。若い人と飲む酒は心地よい高揚感を連れてくる。LINEとやらで、香苗と話をしたことも、体に新しい血が巡るような興奮をもたらしていた。香苗の「あとで家に電話する」という言葉でその興奮はずっと持続していた。
先日、香苗から国際電話があった時、久枝が首と肩を傷めて臥せっていると言えなかった。言ったところですぐに飛んで来られる距離でもない。イギリスへ行ってからは「どうせ言ったところで…」とこちらの病気やちょっとしたトラブルは言わなくなってしまった。きっと香苗はあの時も何か言いたくて電話をして来たに違いなかった。以前、渚に香苗とのLINEのやり取りを見せてもらった時、香苗が夫の会社の倒産で日本に帰りたいという気持ちでいることを知っただけに、こちらからもいろいろ聞きたいことがあったのだが、「お母さんが2階から下りて来るようだよ」と言った途端、電話を切ってしまった。声が聴けたというだけで、話らしい話はできなかった。あの時は不安だけが浩一に残った。香苗と久枝の齟齬は夫婦の間にも溝を作っている。いっそのこと、吉竹が言うように、娘が離婚して帰国したら安心できるのかもしれないとも思う。
冷蔵庫に瓶ビールをしまっていると、電話が鳴った。久枝は2階に居るらしい。昼間でも横になることが多くなった。慌てて受話器に飛びついたが、電話は自動音声によるアンケートだった。機械的なテープの女性の声を確かめもせずに「香苗か?」と思いのほか大きな声が裏返ったが、相手が機械で良かったと時計を見る。まだ5時にもなっていない。
「6時に香苗から電話がかかって来ることを言っておいた方がいいな」、浩一は自分に言い聞かせるように声に出してそう言うと、ゆっくりと2階への階段を昇って行った。
「その前にこないだの電話のことも言っておかなければ……。また『どうして言ってくれなかったの?』と久枝は怒るだろうな」と、これは口には出さずに深呼吸して胸にしまう。階段の踊り場で息を整える。 
「おい、起きてるか?」
「はい、今電話が鳴ったでしょ? なんだか慌ててバタバタ大きな音を立てて電話をとっていたでしょ。目が覚めちゃったわ」
「そりゃ悪かったね。でももう5時だ。夕飯はどうするんだ」
「絵里子さんが、レトルトの牛丼とか、チンしたら食べられるもの、送ってくれたでしょ」
「ああ、そうだったな」
「様子見に来てくれるかと思ったけど、送ってくれるだけだったわね。送ってくれただけでも助かったけど。買い物に行きたいけど、重い荷物を持てないのよ。お婆さんが良く押している手押し車みたいなのあるでしょ。あれが欲しいなあ」
「君もお婆さんだもの、買えばいいさ」
「菊名には売ってないわ。どうやって?」
「それこそ、絵里子さんにネットで買ってもらって、ここに送ってもらえばいいんだよ。彼女なら指一本でちょいちょいだよ」
「そうねえ、そうしようかしら。さっきの電話は何だったの?」
「失礼しちゃうよ。自動音声のアンケートだってさ」
「慌ててたじゃない? 」
「……実はね。6時に香苗が電話して来るらしい。さっき渚さんがLINEで香苗に電話してくれたんだ。びっくりするといけないから先に言っとくけど、ギルバートが失業したらしい」
久枝はしばらく無言だった。
「だから言わないこっちゃない」
ぽつりと呟いた。
「香苗に直接そう言わないでくれよ」
 「わかってるわ」と言ったものの、やはり棘のある言葉が国際電話の電波を震わせた。まず、浩一が出て、LINEのことや渚から聞いた話、暮らしぶりのことなど5、6分話していたが、久枝に代わった途端、話題は香苗自身のことには一切触れず、孫の修のことにすり替わってしまった。 浩一は久枝の手から受話器を奪うと、
「帰って来なさい。電話ではわからないよ」
そう伝えるのがやっとだった。

 浩一は電話を切ったあと、疲れが出たのかベッドサイドの椅子にへたり込んだが、久枝は反対に起き上がるとすぐに絵里子に電話をしていた。
「もしもし、アマゾンってところに頼みたいものがあるの。お金はあとで払うから。手押し車、あるでしょ。疲れたら椅子になっててそこに座れるやつ。ほら、お買い物した荷物がその椅子の下に入れられて…。あれ、頼みたいの。そろそろ東急まで買い物に行きたいの。お野菜が食べたくて……」
久枝の肩と腕や腰の痛みは軽くなったが、家から出なかったため体力に自信が持てずにいた。電話で絵里子に頼むと、気が済んだのか矛先が浩一に向いてきた。
「いいわね、あなたはぷらっと杖でどこでも行けるでしょ。きょうも一杯飲んできたの? 主婦は毎日重たい食材や日用品の買い物をしなきゃいけないのよ。一生、主婦は主婦なの!」 
そう、嫌味を言い放つと、今度はまた違う所へ電話をしている。
「ごめんなさい、お仕事中。香苗の母です。……いえいえこちらこそ主人がお世話になりまして。あのね、香苗のこと、少し教えていただきたいの。あの子、私には何も言わなくて」
浩一がベッドサイドでまどろんでいる間に、久枝は渚に電話で次の約束を取り付けている。こういうのを転んでも只では起きないというのか、あれこれ考える前に行動に移すところは久枝と香苗は似ているのだ。
「いつでもいいの。ご馳走するからランチでもご一緒できないかしら? 場所はお任せするわ。歩いて行ける所にしてね。あまり歩けないの。5分がいいとこ」
用件だけ伝えると、「さっ、ごはんごはん」と言いながら階下へ降りて行った。浩一は昼間のビールがすっかり抜けてしまっていた。

第8話 浩一と翔平 藤村邦

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登場人物  
門脇やえ (2011年の震災で90歳で死去)
杉本 久枝 (76歳)旧姓門脇
杉本 浩一 (79歳)    
ギルバート香苗 (48歳)長女
ギルバート・ジャック(52歳)香苗の夫
小林 渚  48歳 小林酒店の一人娘
小林翔平  27歳 渚の長男  
    
 浩一が蓮勝寺の角を曲がった時である。「ガガガ、ガガン」と激しい破壊音が聞こえきた。昨日まで、そこにあった歯科医院のコンクリートの建物が重機で壊されている。ティラノザウルスに喰われたような無残な医院の姿が目に入ってきた。
――結局、息子は戻らなかった。
 山村歯科が5年前に閉院になった時、近隣住人の多くは二代目が帰ってきて再開することを期待していた。しかし、いつになっても医院は再開しなかった。その代わりに駅前にはインプラントや審美歯科という看板の洒落た歯科医院が三軒も出来ていた。
――私の家も息子や娘によって壊されてしまうのだろう。
 そういった思いと一緒に、激しい落胆と悲壮感が浩一を襲った。浩はマンションを買っているし香苗はロンドン在住だ。久枝と私がいなくなった昭和の家を使うような人は誰もいない。
 昔から変わらないのは渚の店だけと、浩一は気を取り直し「よいさ、よいさ」と三点杖でリズムを付けながら、小林酒店に向かって歩く。杖の使い方を工夫したら早足で歩けることを最近は知り、少しだけ若返った気持ちになる。
 小林酒店の前にはビールケースを抱えた渚の息子の翔平が、赤い野球帽子に黒いTシャツを着て立っている。「こんにちは」と言いながら、帽子をとって浩一に頭を下げた。
「手伝いかい」
「店長見習いです。俺、この店を継ぐんですよ」
「へー」
「結婚して、身を固めようと思ってるんです」
 変わっていく菊名にも必ず残る場所がある。
小林酒店に来る度、浩一は変わらぬ風情から安堵をもらっていたが、孫までこの店と継ぐとは嬉しい限りだ。店の奥の壁に飾ってある先代店長の写真が今日は微笑んでいるように見える。
 写真を見ていると香苗が大学を卒業した日のことが思い出されてきた。  
 香苗は同級生の渚がいたので、幼い頃は、私と一緒にこの店に出入りしていた。浩一の横に座り、酒のつまみの「あたりめ」や柿の種を食べていた。
 娘の卒業後の留学先が決まったので小林酒店に一杯やりに行こうとすると、香苗が「今日は私も行くわ」と言った。小学六年時以来、10年ぶりに父娘で角打ちに出向いた。
「香苗もビールで、いいだろう」
 瓶ビールで乾杯しようとした時、店長がもう一本ビールをもってきて自分でグラスに注ぎ「香苗ちゃん、卒業おめでとう」と言ってくれた。その後から、一歳の翔平を左手に抱っこして、渚が花束とプレゼントらしきリボンのついたものを持ってきて「香苗、卒業と留学おめでとう」と言った。次々にやって来る角打ち呑み仲間が加わり、店の外も中も一杯になり居酒屋の送迎会のような状態になった。缶詰や乾きものが簡易テーブルの上に並び、ワイワイと渚や香苗を囲んで話しは弾んだ。
 「翔平君、覚えているかなあ。ほら、このあたりに机があってさ、店の酒やビールが飲めた。外には二つ積んだビールケースの上に板が置いてあって、丸椅子もあってね、みんなでビアガーデンみたいに飲めたんだよ。今くらいの時間になると住宅から人がやってきてね、楽しかったなあ」
「覚えていますよ、お爺ちゃんが亡くなる時までやってたし、歯医者さんを家まで連れて帰ってあげたこともあったから」
「三代目店長になったら角打ちを、やってくれよ」
「母さん、角打ちだって」
「今はね、条例だとか許可とか大変だし、昔のように、こうした場所で飲むお客さんもいないの。だいたい店に買いに来るお客も殆どいないんだから。今の時代、コンビニの方が便利だしね。この店が続いているのは商店街の居酒屋が増えたおかげなの、仕入れが伸びただけなのよ」
 菊名のこの店にも時代の変化が押し寄せている。ギルバートの会社も時代の波にのまれた結果の倒産であった。退職してからの時代の変化はデジタル化とネットの普及で早くなったと浩一は思いながら、ずっとギルバートの会社状況を新聞で追っていた。倒産後の処理が大変なことも気がかりだ。しかし国際電話をしてまで香苗に聞くことはできない。余計な心配を増やすことにもなる。浩一は思い切って渚に聞いてみた。
「香苗から連絡はあるかね」
「毎日ありますよ。そうだ!今3時だよね。ちょっとまって」
渚はスマホをエプロンポケットから取り出して、電話をかけている。
「あ、香苗。今、おとうさんが来てるのよ。話したいって言ってる」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」と言ったが、渚はスマホを浩一に手渡した。
「ちょうどロンドンは朝なのよ」
 平静を装い、学生時代の香苗に言うような調子で
「久しぶり。今そちらは何時かね」と当たり障りのないことを聞いた。
「お父さん、杖を使い出したんだってね」
 香苗も当たり障りの話題で対応する。
「ああ、ずいぶん楽に歩けるんだよ」
「お母さんやお兄ちゃんは元気なの」
「ばあさんは巾着作りに熱中して、少し首を痛めてる、浩は相変わらずだよ」
――本題を聞かなければ、電話料金が高くついてしまう。
 浩一は思い切って聞いてみた。
「ところで、ギルバート君は元気なのか」
「実は会社が潰れたの。転職先を探している。もしかしたら日本に一緒に戻るかもしれない」
「ああ、実は吉竹から聞いていた。何でもマウンテン計画といって15万人の旅行客をチャーター便でイギリスに戻すので国中が大変なんだろ」
「そう、会社が機能していないの。ギルバートの歳だと次の仕事が見つからなくて、日本のインバウンドに貢献しようと言って、いろいろ探しているけれど、仕事がないし、それと……」
「それと、何だ?」
 浩一には以前に見た渚のラインの「離婚するかもしれない」というメッセージが浮かんだ。
「とにかく、先ずは私だけで日本に帰ろうと思うの。お母さんに言っておいて、ここじゃ話しづらいことがあるから、後で家に電話にする。そちらの時間で六時くらいに待っていて。今、お父さんと話したことも、内緒にしといてよ。お母さん、そういうの、うるさいんだから。じゃあ渚に替わって」
浩一は渚にスマホを渡した。
「うん、帰ってくる日がわかったら連絡して、良太の店で飲もうよ、じゃあね」と会話を終えると渚はスマホをポケットに入れた。
 浩一は、バッグの中にいれてある定年の日に後輩からもらった名前入りのボロボロの財布を取り出して、そこから一万円札を取り出して渚に渡した。
「国際電話の料金と香苗に繋いでくれたお礼だよ」
「何言っているんですか。Line電話といって無料でどこでも電話が出来るのよ、そんなケチくさいことしたら父に怒られちゃうでしょ」
渚は店の奥に飾ってある父親の写真に顔を向けて言った。 
「Lineってのは電話もできるんだね、しかも無料かあ」
 自分が知らない世界で、コミュニケーションの方法までが変わってきている。こんなのが流行ったら電話会社はどうなるんだと、取り残されていく側に意識が向いてしまうのが浩一のクセだ。思えばギルバートの会社の破綻もネットでチケットや海外ホテルが自分で取れるようになり顧客が激減したことが原因だ。新しいものが一つ出来る時、古いものが一つ無くなっていく。
「はい、二本ね」渚は瓶ビール二本を差し出した。
「あ、今日は缶もお願いするよ」
「これの日ね」と渚は笑いながら、右手で缶ビールを飲む仕草をして黒ラベルの350cc缶を渡した。
 香苗の声が聞けたこと嬉しさもあり、久枝に秘密にしている「あれ」をやりたくなったのだ。山村歯科の無残な状態を見て落ち込んでいた気分は、香苗の声で少々持ち直してきている。浩一は三点杖で蓮乗寺に向かって歩きだした。
――香苗が帰ってくる!また一緒に飲めるかもしれない。
 「出戻りと4人で飲もうや」と言った吉竹の言葉が真実味を帯びてきている。
 難関は久枝だ。二人が以前のように言い合いになり意地を張り合うと香苗はまた出ていってしまう。久枝の心の中に香苗はどんな形で存在しているのかわからない。英国にまで嫁に出した母として、かつての久枝自身のように「結婚したら実家の敷居は跨がない」という古い考えが未だにあるのかもしれない。実際、気仙沼から横浜に嫁いだ久枝が実家に戻るのは、年末年始だけであった。久枝と母親との親子葛藤があったことは結婚当時から知っていたが、7年前の震災の津波によって、一人で住んでいた母が亡くなった時から久枝は悪夢を見るようになっている。
 故郷を置いた母親を一人で死なせた久枝の孤独感や罪悪感を感じる時、浩一は妻が愛おしくなる。昨日も久枝は夢にうなされていたが、意地の張り合いがあって優しい対応ができなかった。
 久枝と香苗には、一度決めたらやり遂げるという一徹さがあり、そこは母娘で似ていた。それ故に互いの思いが違った時、二人は強く衝突するのであった。
「お父さんに言ったことは秘密よ、後で上手にお母さんに伝えて」という言葉を、幼い頃から何度聞いたことか。
「留学の件、お母さんには秘密よ。許可がおりてからお母さんに伝えて。ギルバートのことは……」
 何でも重要な事を浩一に最初に伝え、浩一から久枝に伝言させるのであった。そういう父娘関係が浩一は嬉しかったが、久枝にしてみると気に入らないのかもしれない。
――夕方かかってくる香苗の電話には「久しぶり」を装わないと。 

 浩一が蓮勝寺が好きな理由は変わらぬ形が、そこにあるからだ。境内への階段をゆっくり上がりベンチに座る。腕時計を見ると4時半だ。ちょうどよい時間だなと周囲を確認する。この時間帯はあまり人が境内にやって来ない。寺の花水木の花はすっかり散っていたが、爽やかな春風が吹いていた。デイバッグを降ろして缶ビールを取り出してプルトップを開ける。こうして二週間に一回くらい「不良老人」になるのが、老いた浩一の楽しみのひとつだ。80歳近い老人が1人で境内のベンチに座り不謹慎にビールを飲んでいる姿を久枝が見たら、真っ赤な顔で「みっともない、離婚よ!」と言うのに決まっている。
――おお、くわばら、くわばら……。
 親に隠れてタバコを吸う高校生のような気分で、暮れかけてきた空を見あげて缶ビールを味わう。
「ああ美味い、今日の風は気持ちがいいなあ」
思わず独り言が出る。香苗を思い出しながら、缶ビールをゴクリと飲む。

 香苗が国際社会に関心が向いたのは1本の映画だ。浩一が「ホテル・ルワンダ」というDVDを借りてくると、中学一年になった香苗は横に座って父親につきあって見始めた。久枝と宏はキッチンで談笑していて二人が観ている映画には全く関心がない様子だ。宏が中学生になった頃から、杉本家には母と息子、父と娘という連合ができ始めていた。
 ホテル・ルワンダはツチ族とフツ族の内戦の話しである。1994年にルワンダで勃発した虐殺で、フツ族過激派がツチ族の120万人以上を虐殺したのだ。その状況でフツ族のポール・ルセサバギナがツチ族1200名以上を自分のホテルに匿ったという、実話を基にした映画であった。
 映画が終わると、香苗は大声で泣いていた。
「なんで、こんなことするの。どうして、こんな世界があるの……」
「香苗、世界は広いんだよ。あちこちでいろんな事が起きている。世界を考えるような大人になってほしいなあ」
 香苗は留学すると決意して、英検一級をとり、大学を卒業した後にロンドン大学に留学したのである。

 今日の出来事を手帳に書き留めておこうとバッグの中を探す。浩一は手帳に、その日にあったこと、感じたこと、思い出したことを書くのが定年後の習慣になっていた。先の人生が短くなると一日が終わることの重さが身に染みるからだ。
 しかしバッグの中を覗いて「はっ」と思った。財布がないのである。
 「悪いことの後には良いことが、良いことの後には悪いことが起こる」とは人生で学んだ浩一の教訓だが、実際に悪いことが起こると動揺は激しかった。動悸がして冷や汗が出てくる。マイナンバーカードや保険証などが入った思い出の大切な財布がない、どこにもない。香苗と話した高揚感で落としたことに気づかなかったのだ。
――途中で落としたんだ、早く戻らないと、どうしたものか。
 物忘れ、老い、失われて行く世界、老夫婦だけの生活という現実が、激しい孤独感と不安感を連れて浩一の心に津波のようにやってきた。
残った缶ビールを捨て、店に戻ろうと準備をしていた時、若い男の声が聞こえた。翔平が走ってきて、浩一の目の前で財布を出した。
「おじさん!軽トラの横に財布が落ちてたんです。ハアハア、母さんから、蓮勝寺に居るはずだと聞いて届けにきました。ハアハア、母さんがこれ持っていけって、せっかくだから付き合ってきなさいって」
 翔平は財布を浩一に渡すと、手に下げていたビニール袋からビールと柿の種を取り出した。
 翔太は浩一の隣に座り、缶を開けると泡が一気に吹き出す。全速力で走ってきたせいだ。そんな事一つでも浩一は老いを実感する。もう自分はビールが吹き出さない程度のスピードでしか歩けない。
 殆ど空になった缶ビールで2人は乾杯した。フレンチブルドッグの散歩で時々会う品の良い婦人が頭をさげた。浩一と一緒に翔平も頭を下げる。少し風が冷たくなってきて空は暗くなり始めている。
「香苗おばさん、戻ってくるって本当ですか」
「わからんよ。そういえば香苗は翔平君の家庭教師をしてたね」
「俺、勉強出来なかったからね」
「それより、もうすぐ結婚するんだろ。お母さんもそうだけど、小林家は結婚が早いねえ」
「結婚して祖母と一緒に住む予定なんです。今の酒屋は壊して、ビルに建て替えようかと思ってるんです。一階を酒屋かコンビニにして、二階をワインBarにしようかなとも思っています」
「お母さんは知ってるのかね」
「母にはワインBarのことはまだ言ってません。実は、祖母のアイデアなんですよ。お爺ちゃんの遺言で俺に店長をやらせて店を大きくしたいというのです」
「うん、まあ、いいんじゃないか」
――町から思い出がまた一つ消えるのか。
 先代店主の思い出話やビール達人の歯医者さんの話などで30分ほど会話して懐かしい気分に浸った。「小林酒店という名前は残してほしい」と思ったが、翔平に言うことはできなかった。
「空き缶は処分しておきます」と言うと翔平は店に戻っていった。

 家に戻ると、玄関には久枝の靴があった。
 リビングには居ないので二階で寝ているのに違いない。粗大ゴミ発言から久枝との関係は最悪になってしまった。出かける前の「虫の冗談」も言い過ぎだったと思う。
 老いた者同士で穏やかにやっていこうと思っても、些細なことで衝突してしまう。老夫婦のパターンを変えるほうが違和感もあるし、もう自分にはできないと浩一は思う。浩一も久枝も、嫁、息子、娘には本音や小言は言えない。しかし配偶者には言いたいことを言ってしまう。
 そんなことを考えながら冷蔵庫に瓶ビールをしまっていると、固定電話が鳴った。
「香苗だ」
浩一は逸る気持ちで受話器をとった。
   

 

第7話 渚の場合 芦野信司(絵も)

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登場人物  小林 渚  48歳 小林酒店の一人娘
      小林翔平  27歳 渚の長男
      小林正男  50歳 渚の夫
      小林ゆう子 73歳 渚の母
      宗次良太  48歳 焼鳥屋の店主
      ギルバート・香苗  48歳 英国在住

 菊名駅前の商店街は道が狭い上に車の往来が激しいが、街道からちょっと入った飲食店の並んだ路地の午前はひっそりしている。
 「やきとり むねつぐ」の看板がかかった店の前に、小林酒店と名の入った軽トラが止まった。運転席側のドアが開いて若い男が降り、反対側から渚が降りた。若い男が店の戸をガタガタと引きながら「こんにちは小林酒店です」と声をかけた。
「オー翔平か。ごくろうさん」店主の良太が応えた。「お母さんの手伝いかい?」
 翔平と呼ばれた若い男が少し躊躇するように答えた。
「いえ、手伝いじゃないんです」
 渚が、翔平の大きな背中の横から顔を出した。
「来年の結婚を前に、いよいよ本式に酒屋をやってくれるんだとさ。前の会社を辞めて、今日はその初日。納品しながら、お得意さまに顔見せしているの」
 渚が翔平の背中を押して「ほら、注文のお酒をトラックから持ってきて」とどやした。
「これから、よろしくお願いいたします」
 翔平は良太に丁寧に頭を下げて、外に出て行った。
「うちのおばあちゃんもだいぶ歳になったので、お嫁さんと一緒に住んでくれるって言うの。古い家だけど独りで住むには大きすぎるし、夜も安心だからありがたい。お嫁さんは店番もしてくれるみたいだし、願ってもない話なんだけどさ、なんだか気の毒で」
「せっかくなので、渚も一緒に住んだら? ご亭主と一緒に」
 渚は、上目遣いに良太をにらんで首を横に振った。
「いやあ、それは無理。あいつは自己主張なんかしないように思われているけど、とんでもなく頑固よ。私と結婚するとき、うちの父親から言われたことをずっと根に持っているからね」
「結婚してからあらかた30年にもなるのに?」
「いくら経っても、それは変わらない」
 渚と良太がそんな話をしている間に、翔平が生ビールの樽と瓶ビールのケースを店内に運び込んだ。
 良太は、そんな翔平の姿を見ながら「亡くなった親父さんが、今頃喜んでいるよ」と言った。「そうだ、翔平。日高見も置いていってくれよ。おまえの母さんがこの間、飲み干したから」
 渚が反論する機先を制して、翔平が鋭くこたえた。
「毎度ありがとうございます」
 翔平はまた外へ出て行った。 
 良太は、生ビールの樽を両手で持ち上げ、カウンターの内に運び込んだ。代わりに空の樽を持ってきた。
「そういえば、この間、香苗のご両親と甥子さんが来ていただろう。あのとき話が出ていたんだが、香苗の旦那の会社が倒産したんだって? それで香苗がロンドンから日本に帰ってくるとか来ないとか言ってたけど」
 良太はそう言ってからビールケースに手をかけた。作業の片手間に訊ねているという風だった。腰を下げて、よいしょと持ち上げた。
 渚は、甥の手前、香苗のことはあまり話さなかったことを思い出した。
「離婚するかもよ」
 渚は、良太がびっくりするだろうと思いながら、少し意地悪なぐらいにあっけらかんと言い放った。
「そうか」
 良太は、ビールケースをカウンター内に運び込んで、奥にある大きな冷蔵庫を開け、ひと瓶ずつしまい始めた。
 その後ろ姿を見てると、渚の脳裏に中学一年の最後の日の事件が蘇った。終業式のあと、良太と香苗が居なくなったのだ。渚の家に香苗の両親が訪ねてきたのは、その夜の8時だった。まだ、香苗が家に戻っていないという。その前に学校に連絡したら、良太も家に帰っていないことが分かったという。結局9時になって二人はそれぞれの家に戻ったが、二人は何をしていたかを話さなかった。学校を巻き込んだ事件となったため、二人は根ほり葉ほり訊き出され、二人で山下公園に行ったことと、県内有数の進学校に合格した兄に香苗がプレゼントを探していたことがわかった。
 学校は新学期までの休暇に入ったが、噂は尾鰭をつけて広がり「良太は不良」のレッテルが貼られてしまった。香苗は、小学生からずっと友だちだった渚にめそめそしながら「私が誘ったので、良太は悪くない」と訴えた。香苗の両親も日頃の香苗を知っているので苦笑いで終わったらしい。しかし、生意気盛りだった良太は先生に何か暴言を吐いて、父親からこっぴどく殴られたという噂だった。
 良太はあの頃から香苗が好きだったと渚は思い返した。そして、あのとき渚が受けたショックも。良太が哀れだと思った。
「良太さん。今見たんですが、日高見を積んでいなかったので。ちょっと店に帰って持ってきます」
 翔平が、入り口から声をかけた。
「いやあ、急に言った俺が悪かった。今度でいいよ」
「いえ、どうせ直ぐです。ご迷惑でしょうが、母さんの話し相手をしていてください」
 渚は翔平を振り向きざま叱ってみせた。
「何をバカなことを言ってるんだい。さっさと行ってきな」
 軽トラが走る去る音が聞こえた。
 渚はカウンターの椅子に腰を下ろして良太を見た。
「香苗の旦那の何とかという大きな旅行会社が倒産したんだって」
「それで離婚かい?」
「理由じゃなくて、きっかけかもしれない。昨日、とにかく一度戻るってラインが来たから早々に戻るんじゃないかな。なにせこうと決めたら曲げないからね」
 渚はそう言ってから、ひとり笑いをした。
 良太は、渚の笑いをとがめるような目つきをした。
「何だい。何が言いたいんだ」 
 渚は、良太が中学の時の事件を思いだしているのじゃないかと思って、ちょっと横を向いてもう一度ふっと笑った。
「ほら、私たちは公立高校の商業科に行ったじゃない。それに対し香苗は私立高校。私たちは継ぐべき家業があったからさ。良太は魚屋を継いでいないけれどね」
「俺と親父はうまく行かなかったから」
「私も同じよ。酒屋を継げの一点張り。私に選択の自由はなかった。だから、香苗がうらやましかった。高校卒業の時、香苗と伊豆に旅行に行ったのもそれぞれ違う道に行こうとしている感じがあったからだったけど、稲取から帰って来ようという時、香苗がヒッチハイクしようと言い出したのよ。一人じゃ怖いけど二人なら大丈夫だと言って。私は反対したのよ。でも、香苗はね、二人の思い出を作るんだって聞かないの。そのとき止まった大型トラックがうちの亭主との馴れ初めになるんだから不思議。私が結婚したのは、あのとき香苗が自分の意見を曲げなかった結果よ。それを思いだしたの」
「ああそうだ、渚に長距離トラックの運転手の恋人ができて、あっちこっち遠乗りしてるって親父さん怒っていたもの。そのうち、子供ができたってぼやいていたけど、それが翔平なんだから結果オーライ。渚の結婚は大成功。俺や香苗とは違って」
「とんでもない。あいつは、わざわざ私が困っている時に浮気していたもの。最初は父が入院したとき。翔平は小学校に上がっていたけど次男が幼稚園で娘がまだ3歳だったかな。酒屋の仕事が分からなくててんてこ舞いだった。あのときは良太にも配達手伝ってもらったよね。ほんとにありがたかった」
「困ったときは助け合わないとね」
「ところがさ、うちの亭主は絶対手伝わなかったもの。父が出した結婚の条件が二つあって、一つは店の跡継ぎは私であること。だから店の財産や仕事には関わらせないと言ったからね。もう一つは私が一人娘だから小林の姓は捨てさせない。お前が婿になって近くに住めだった。この約束だけは守ってるよ」
「他にも浮気はあったのかい」
「あったね。浮気していると帰って来なくなる。その点、父は男を見る目があったのかな。父はあいつのことを猫みたいな奴と言って嫌っていたから。いつの間にか居なくなって、いつの間にか帰っている。長距離トラックの運転手で、いつも家に居ないから、居ないのが当たり前みたいなところがあって、子育ても私とうちの母に任せっきり。家に居るときは、いつも寝ている。今日も居るけど寝ているものね。そんな結婚が大成功なら、結婚って何よ」
 良太は、頬に手をやり目をつむって渚の話を聞いていた。黙ったまましゃべらない。渚もカウンターに顔を突っ伏したまま動かない。良太は腕を伸ばして、渚の髪に手をやった。
「いいよ、やさしくしなくたって。また好きになっちゃうじゃない」
 渚は顔を伏せたままそう言った。良太の手が渚の髪から離れた。
 良太は、冷蔵庫から鶏肉のかたまりを取り出してまな板の上で焼き鳥の下拵えを始めた。同じ部位の肉を適量の大きさに切りそろえボウルに移していく。それを取り出して串を打つ。タッパーに詰めて冷蔵庫に戻す。葱なども水洗いしてから水分をふき取り、同じ大きさに切っていく。良太の包丁の音が軽やかにまな板に響いた。
 渚にはその音が子守歌のように心地よかった。少し眠ったのかもしれない。気がついたときには、翔平が横にいた。
「母さん、次行こうか」
 翔平の手が渚の背中を揺すった。
 カウンターから顔をあげた渚に、良太が一升瓶を持ち上げながら笑っていた。
「日高見、入ったから。待っているよ」

 軽トラは混んだ街道を走り大きなビルの裏に入り込んだ。ビルの地下にお得意さまが三軒ある。翔平は折りたたみの台車に酒やビールのケースを乗せ、車と店を何度も往復しながら納品をこなしていく。渚の仕事ぶりも誉められることが多いが、翔平のスピードには叶わない。お得意さまにも翔平は好印象を与えたようだった。
 このあたり一帯は坂が多い。登りも下りも急だ。4WDの軽トラは嬉々として走り回る。隣町のお客様にも挨拶を済ませ、二人が小林酒店に戻ってきた時には二時近くになっていた。渚の母のゆう子が店番をしながら、二人のために昼食を用意していた。昼食のあとは小休憩。お得意さまが夕方の開店準備にかかったときにもう一仕事しなければならない。
 ダイニングの椅子でくつろいでいる渚に、テーブルを挟んで反対側にすわっていた翔平が声をかけた。
「今日が僕の酒屋の初日なので、お母さんに言っておきたいことがあるんだ。聞いてくれる?」
「もちろんよ」
「おじいちゃんが亡くなる前、僕を呼んで『店はお前が継げ』と言ったんだ」
「そりゃそうでしょ。おじいちゃんはお前が生まれたとき、跡取りができたって喜んでいたもの」
「うん。そうじゃなくってね。店はおばあちゃんに残すので、おばあちゃんからお前が引き継げって言われたんだ。お母さんじゃなくてね。僕、その時高校3年で、すぐにはいとは答えられなかった。それがずっと心に引っかかっていた。お母さんは聞いていた?」
「いや、覚えてない。おじいちゃんのことだから、そんなこと言ったかもしれないけど。あのころ、いろんなことがあって忙しかったからね」
「それでね、この前おばあちゃんに聞いてみたんだ。おじいちゃんから聞いてるかどうか。僕の思い違いかも知れないしね。そうしたら、おばあちゃんは覚えていた。そんなことを言っていたねって」
 翔平は一度目をつむった。祖父の遺言めいた言葉を言われたときのことを思い出しているようだった。
「おじいちゃんから言われたからじゃないけど、そういう相続の仕方もあるかなと僕は思っている。弟も妹も酒屋なんかまっぴらだと言うし、お父さんは端から関係ないものね。せっかく続いてきた酒屋だけど、いまのままじゃ先細りになると思うんだ。相続税の問題もあるから一緒に住んだ方がいいし、この土地を担保にお金を借りて店の上を賃貸マンションにする手もあると思うんだ。お父さんお母さんと一緒に住めるようにしたいし。これから、いろいろ考えないといけないんだけど、それを考えるのは僕だろうという気がする」
 渚は大きくため息をついた。翔平の考えていることの本当の狙いがどこにあるのかが全く分からなくなった。親孝行とばかり思っていた翔平だったのに、深い周到な計画をしていたことを知った。もちろん、周到な計画が悪いわけではないし、それが孝行と結びつかないわけではない。しかし、それは渚の生きている世界とは別物のような気がした。
「お前がそう思うんだったら、そうすればいいんじゃないかな」
 渚は、そう答えるのがやっとだった。

 渚は急な疲れを覚えて夕方の配達は翔平に任せることにした。翔平は、自分が変なことを言ったせいじゃないかと心配したけど、渚はそうじゃないと言って自転車で自宅に戻った。
 自宅は小林酒店から妙蓮寺の方向に15分ほど走ってところにある賃貸マンションの3階だ。娘も勤め始めて独立したので3LDKの間取りは二人暮らしには無駄な感じがした。結婚したての時に住んだ2DKの安っぽいアパートが懐かしかった。
 渚が鍵を開け「ただいま」と声をかけたが返事がない。リビングに入ると夫の正男の頭がカウチの端から出ている。眠っているらしかった。
ヒッチハイクで止まってくれた大きなトラックの窓から突き出た二十歳の正男の顔はびっくりするくらい幼顔だったことを思い出した。渚と香苗は思わず顔を見合わせたのだった。自分たちより若いのじゃないのかと怪しんだほどだった。そして、この人なら怖く無いと思ったのだ。
 渚はダイニングの椅子にすわって正男の寝顔を見た。あのとき正男は「助手席は一つなので、ひとりは座席のうしろのベッドになるけどいいかな」と言ったのだ。じゃんけんで負けた渚はベッドになった。香苗は大型トラックの視界の高さに大はしゃぎしていた。渚はうしろからシートに掴まるようにして、右手に広がる相模湾を見ていた。香苗と正男は随分楽しそうにおしゃべりしていたのに、横浜駅で降ろしてもらったときに電話番号のメモを渡されたのは、渚の方だった。
「もし、よかったら電話してね。今度は前の席に乗せてあげるよ」
あのときから結婚するまで、渚は香苗からさんざん冷やかされたものだった。
「ねえ、起きなさいよ」渚は正男の腕を揺すった。「香苗がロンドンから帰って来るんだって。離婚するんだって」
 正男は目をしばたたせながら「何だ、そんなことか。どうでもいいじゃないか」と面倒臭そうに顔をしかめた。そして、また目をつむった。
 渚はそんな正男の顔を見ていると無性に腹が立ってきた。正男の手の甲を思い切りひっぱたいた。
「痛い! 何すんだよ」
 渚の目は怒りに濡れていた。
「私だって、私だって、いっぱい我慢してきたんだからね」そう叫んで、正男の腕をぴしゃりぴしゃり叩きはじめた。「このバカ。このバカ。勝手に女作って居なくなっていたくせに。私が本当に苦しいとき、お前は何やっていた! 私が知らないとでも思っているの。絶対許さないから。一生許さないから」
 渚が怒り始めると自分の言葉に感情が煽られて怒りが収まらなくなる。正男は無抵抗で殴られている。こんな時は自然に興奮が収まるときを待つしかないのだというように。
「私を何だと思っているのよ。みんな私をバカにしているの?」
 正男は、渚の背中に手を置いて静かに宥めた。
 しばらくして、渚はしゃっくりをし始めた。
「あれっ、変ねえ」
 渚は急に憑き物が落ちたようにいつもの声に戻って流しに立っていった。そして、コップで水道水をひと飲みした。しばらくぼんやりしていたが、振り返って正男に言った。
「ねえ、またトラック乗りたいよ。店は翔平に任せて、一緒にあっちこっちへ行ってみようよ。ねえ、そうしよう」